辺野古というのは、細長い沖縄本島の真ん中よりやや上のあたりの東海岸沿いに位置している集落である。いちおう名護市という市に属しているが、名護市の中心である名護は西海岸沿いの開けた町で、リゾートホテルなども建ち並んでいる。一方、ひと山越えて東海岸へ出たところにある辺野古は、ジュゴンが住む豊かな海が目の前に広がり、素晴らしい景観に囲まれているが、行政サービスから取り残された寒村という面持ちである。
 DVD『ライヴ辺野古』(08年)のジャケット写真が、辺野古の集落から砂浜へ出たところの風景だ。これはDVDの裏側まで続いている1枚の写真の右半分なのだが、裏側のほう、つまり写真の左半分のほうを見ると、砂浜を区切るように柵が施設されていることがわかる。平和でのほほんとしているように見える写真だが、その柵の向こう側に広がる広大な土地は、在沖縄米軍海兵隊の基地、キャンプ・シュワブなのである。
 辺野古に隣接する場所にキャンプ・シュワブができたのは、沖縄が返還されるよりもずっと前、1956年のこと。辺野古には基地建設と同時に仕事を求める人がたくさん集まってきて、ベトナム戦争の時代には米兵相手のバーが120軒もあったのだという。でも今はすっかり寂れてしまった。
 辺野古という地名が大きく報道されたのは97年、米軍普天間基地の機能を移転するためにという名目で、辺野古の沖合に海上ヘリポート基地を建設する計画が持ち上がったときだった。そして04年、那覇防衛施設局が辺野古沖合に基地を増設する案のためのボーリング地質調査に向けた現地作業に着手したことを期に、基地建設「反対派」による阻止行動が活発化した。その影響もあって辺野古沖合案は潰れたが、そのかわり、日米両政府はキャンプ・シュワブの沿岸部にV字型滑走路を備えた基地を増設することで合意した。基地建設「反対派」は、騒音問題や、この地域に生息しているジュゴンや珊瑚礁に決定的なダメージが与えられるという環境問題の視点など、あらゆる角度から「反対運動」(基地建設阻止行動)を展開し続けている。
 一方、基地建設「推進派」は、いかにも見返りの振興策に期待しているという雰囲気が濃厚だ。米軍基地の増設が世界平和のために必要だからという考えに基づいて「推進派」になっている人となら議論すればいいが、実際には、地元にはそんな人はまずいないだろう。地域振興のためには基地の受け入れはやむをえないという考えの地元民に対して、よそ者が批判することは難しい。
 そんなデリケートな状況のなか、07年2月24日と25日の2日間にわたり、 辺野古の浜で『Peace Music Festa! 辺野古』が開催された。これは見逃すわけにはいかないということで、ぼくも現地へ行った。そして、延べ27組のアーティストが出演して、1,500人の観客が集まり、両日とも昼の12時から夜8時まで繰り広げられた熱演の宴をしっかりと見てきた。この場にいたおそらく全員が基地建設に反対の立場だったと思うが、現地のデリケートな状況を考慮して、ミュージシャンたちはあえて政治的メッセージを発せずに淡々とライヴを行っていた。しかしその無言の抵抗が、火事場のバカ力のような集中力を生み、極度に素晴らしい音楽を奏でていた。メッセージのための音楽ほどくだらない音楽はないが、素晴らしい音楽にはメッセージが内包されている。そのことを『Peace Music Festa! 辺野古』は証明していた。
 07年2月24日のソウル・フラワー・モノノケ・サミットのライヴと、2月25日のソウル・フラワー・ユニオンのライヴを収めたDVDが『ライヴ辺野古』である。録音に難があるが、それを差し引いてもこれは歴史的ライヴのDVDなので、『ラヴィエベル 〜人生は素晴らしい!』(07年)、『寝顔を見せて』(07年)、『海へゆく』(08年)といったシングルをパスしてでも(買うことを止めはしないが)ゲットしてほしい。
 それから本当はもうひとつ、07年5月15日に、中川敬に「ゆめ」ちゃんという男の子が生まれたのだが、本人が言うには、それもこの新作に好影響を与えたとのことだ。
 そんなわけで、ソウル・フラワー・ユニオンの新作、オリジナル・フル・アルバムとしては3年ぶりとなる『カンテ・ディアスポラ』は、8曲めの「パレスチナ」と12曲めの「辺野古節」が象徴的な曲ではある。でもいきなり1曲めの出だしが「♪天国は満席、地獄はゼネスト」だし、一気に最後まで聴いてしまうだろう。ソウル・フラワー・ユニオン印のグルーヴがばっちりウネっているし、全15曲で描いている世界観に05年から08年のソウル・フラワー・ユニオンの姿がくっきりと刻印されている。「最新作が最高傑作」という神話をまたしても実現してしまった。