文/石田昌隆
 ソウル・フラワー・ユニオンの新作『カンテ・ディアスポラ』が完成した。全15曲、トータル・タイム73分。オリジナル・フル・アルバムとしては『ロロサエ・モナムール』(05年)以来、3年ぶりだ。ぼくはこのタイトルを知った瞬間、傑作に違いないと直感した。なぜなら、この3年間のソウル・フラワー・ユニオンの活動を見事に収斂したタイトルだと思ったからだ。
 ディアスポラとは、元々はユダヤ人の離散を意味する言葉だが、たとえばブラック・ディアスポラと言えば、アフリカから奴隷船に乗せられてアメリカやカリブ海の島などに連れてこられた黒人とその子孫たちのことである。ディアスポラとは、今では、戦争や弾圧によって祖国を離れざるを得なかった難民や亡命者から、豊かな暮らしを求めて移民したような人たちまで含めて、さまざまな地域の離散した(させられた)人々を幅広く捉える社会学的な言葉になっている。『カンテ・ディアスポラ』とは、離散した(させられた)民衆の唄という意味である。
 この3年間のソウル・フラワー・ユニオンの活動を振り返ると、大きなポイントが2つあった。
 まず、前作『ロロサエ・モナムール』が完成した直後の05年6月に、ソウル・フラワー・ユニオン(モノノケ・サミット)はヨルダンへ飛び、アンマンのパレスチナ難民キャンプでライヴを敢行したことを挙げなくてはならない。このとき、最前列に陣取っていたDPA(パレスチナ自治省)の「お偉方」までさりげなく足と手でリズムをとっていて、ソウル・フラワーの想いが伝わってしまったというエピソードは、ファンにはお馴染みだろう。
 イスラエルが建国されたのは1948年、そのときのナクバ(大惨事)で80万人のパレスチナ人が難民になり、現在のヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ヨルダン、レバノン、シリア、エジプトなどへ逃れた。その後、4度にわたる中東戦争で新たな難民が出たり、ナクバから60年が過ぎて避難先で生まれた2世や3世の難民が増え、ヨルダンだけでも、人口550万人の国に190万人ものパレスチナ難民が暮らすという状況になっている。ヨルダンの難民キャンプは、もはや見た目は普通の街と変わらないし、ヨルダン国籍を得てヨルダン人と同じ暮らしをしている元難民の家系の人も少なくないという。それでもパレスチナ人としてのアイデンティティがしっかり受け継がれている限り、彼らはパレスチナ難民であり、すなわちディアスポラなのである。ヨルダンはイスラエルとイラクの間に位置する国なので、03年にアメリカの空爆により始まったイラク戦争でも、難民となったイラク人が多数、ヨルダンへ逃げてきた。この辺の位置関係は地図でチェックしてほしい。
 ソウル・フラワー一行は、このライヴの翌々日、紅海に面したヨルダンの港町アカバからピース・ボートのトパーズ号に乗った。そしてスエズ運河を越え、途中寄港したエジプトでカイロの町を歩き、イタリアのシチリア島で下船して飛行機で帰ってきた。この遠征を記録した話がオフィシャルHPに残っているのだが、カイロでのエピソードを読んだとき、思わず頬が緩んでしまった。〈「昔の権力者の墓を見て何がオモロイんや?」という中川氏の一言で、急遽予定を「アラブ町中散策」に変更。ヨルダンと同じく、町を見ないとその場所はわからない。ということで迷路のようなカイロの町を歩き回る〉と、書かれていたのだ。言うまでもなく昔の権力者の墓とはピラミッドのことである。ぼくも1度だけカイロへ行ったことがあるが、やはりピラミッドへは行かずに、ひたすら町を歩き回っていただけなのだった。
 ソウル・フラワー・ユニオンの中東〜イタリア遠征の旅は、じつは期間が短いし特に珍しい所へ行ったわけでもない。しかしとにかく町を歩き回り、地中海を横断する航路を体験した。中川敬は、オフィシャルHP内で『シネマは自由をめざす』という、映画評というか、映画をネタにしたエッセイのような文章の連載を持っている。そこでは、フランス、イタリア、ギリシャ、パレスチナが主要舞台になっている映画だけでもかなりたくさん取り上げられていて、映画に描かれている現場へ踏み込んでいくような筆致に圧倒される。さまざまな映画を通して想像してきたこの地域一帯の気配と感触、それがこのときの旅でかいま見た町の記憶に補完されて、さらにリアリティが増したに違いない。『カンテ・ディアスポラ』に深い陰影を感じるのは、この旅のそういう成果なのであろう。
 そしてもうひとつのポイントは辺野古(へのこ)への関わりだ。