1989-1992 EPISODE

1989-1992 EPISODE

■1989.1.7 次作収録予定曲の歌詞を大幅に書き換える。
◎中川談

「確かこの時に書き上げたんが〈こたつ内紛争〉、〈ソウル・サバイバーの逆襲〉、〈まどろみ〉あたりの曲や。合宿の真っ最中に天皇ヒロヒトが死んで、なんかモヤモヤした気分をその辺の曲にブチまけた覚えがあるな」

■1989.1.17 渋谷ラ・ママ(ワンマン)
◎伊丹談

「このころは日本語詞を書き初めた時期で、ツアーの車中ずっと70年代のフォークとか歌謡曲がかかってたんや。その中から一曲遊びで演ろっていう話になって、初期RCの〈金儲けのために生まれたんじゃないぜ〉を演ったら、非難ごうごうで(笑)。原曲を知らん人からしたら、ヘタなメッセージ・ソングをやってるようにしか見えへんかったんやろうな」

■1989.3.6 プリティ・ピクピク・モデル
演った曲は、チューリップの〈夢中さ君に〉(中川Vo)、甲斐バンド〈テレフォン・ノイローゼ〉(オクノ・Vo)、フィンガー5〈恋のアメリカン・フットボール〉(スズキ・Vo)、アナーキー〈ノット・サティスファイド〉(ベン・Vo)等々。

◎ベン談

「俺のヴォーカル初体験の日(笑)。選曲が選曲やから歌ってる本人よりもバックで演奏した人らの方が恥ずかしかったかもな」

■1989.4.8 カップリングの〈ニュー人生ゲーム〉、〈団結は力なり〉も録る。
◎中川談

「このレコーディングの2日前にビリー・ブラッグのライヴを見たんや(大阪ファンダンゴ)。そのライヴが良かって、妙に盛り上がって、急遽、〈団結は力なり〉の短いインストを録ることにしたんやね」

■1989.4.15 フィナーレはパンタ飛び入り
◎中川談

「メジャー移籍した時に、パンタの事務所にソウル・フラワー・オフィスの電話を置かしてもろたんや。そんなこんなで、パンタとも会うことが多くなって、この日はセッションした訳やけど、本質的に「近い人」やなって思ったんを覚えてる。当時のパンクス中川(笑)としては「日本のロック史」なんてクソくらえな訳やけど、パンタはとにかくOKやったな。数少ない「また演りたい人」やね」

■1989.5.7 アルバム『ソウル・サバイバー』のレコーディング。
◎中川談

「とにかく嬉しかったんは、時間がかけれるってことやった。もう『プリティ・ラジエーション』ででけへんかったことは全部やったれーって調子やったな。今聴くとダビング過剰なトコもあるけど、当時は生ピアノが使えたことと、ホーン・セクションを導入できたことが、ホンマ嬉しかったんや」

■1989.5.13 川崎クラブ・チッタ
◎ベン談

「ザ・ロックバンド(アナーキー)のコバン(ドラム)に“ファンなんです。サインして下さい”とか言って、スネア・ケースにサインしてもらって、おまけに握手してもらって、とてもハッピーな1日でした(笑)」

■1989.6.21 ソウル・フラワー・レーベル、初のメジャー盤。
◎奥野談

「一応、メジャー第1弾ってゆうことで、嬉しかったんや。どこのレコード屋さんにも置いてあるっていうことやと思ってたからな。ところがないんよ(笑)、これが。大きいレコード屋さんやったらあるやろ思って、大阪ミナミのレコード屋さんに行ったら、今度は例の、俺が売れへんオカマの演歌歌手みたいに写ってるジャケットが20枚くらいドカンとディスプレイしてあって……、結局買わんと帰ったんや(笑)」

■1989.6.27 名古屋エレクトリック・レディ・ランド 。
◎伊丹談

「太郎のクビが決定して、昔からの知り合いのタッちゃんに手伝ってもらうことになってんけど、初ライヴがワンマンってゆうのは、きつかったと思うわ。お客さんはいつも通りパンクっぽいもの期待してるし、私らはいつもの調子で……、タッちゃんは軽いタッチでゆったりリズムをとるタイプやったから、ステージの中も外もギクシャクした感じやったな。でも私としては、失敗しても前進してるっていう気持ちの方が大切やった」

■1989.7.11 アルバム『スプーニー・セルフィッシュ・アニマルズ』のレコーディング。
◎中川談

「レコーディングを目の前にして、太郎がややこしかったんや。“やる”言うてみたり、“やめる”言うてみたり。で、ブチ切れたヒデ坊はレコーディング前にもかかわらず、クビにしてしまうんやな。タッちゃんとベンがホンマ、ようやってくれたと思うわ。練習時間なんかぜんぜんなかったもんな。」

◎ベン談

「俺は当初3曲ぐらいで叩くことになってたんやけど、タッちゃん(五師達也)がうまくいかへんかって、ほとんどの曲を叩くことになってしもたんや。メスカリンをタテノリ・ロックンロール系のバンドにしてもうたみたい(笑)」

◎河村談

「中川から声が掛かって2曲参加することになってんけど、ワウギターとか普段使ったことなかったから、かなり苦労したな。後で聴いたら〈アス・ホール〉のイントロのワウとか、ほとんどボツ状態やった」

■1989.8.31 『笑いっぱなしの島』、『ビッグ・ブレイク』のビデオ・シューティング
◎伊丹談

「守屋さん(*1)の知り合いのヒロキさん(*2)に監督やってもらってんけど、ロマンポルノ系の監督で、ロケ地も箱根の別荘で、ベッドルームにバスルームがついてたりして何かあやしい(笑)。カメラ・ワークもちょっとあやしい(笑)。それに、ビデオになれない私らの為に、スタッフが笑わそうとしたりするのも、また、妙な感じで。できあがったビデオを見て、穴があったら入りたい気分やったわ」

(*1)当時、ソウル・フラワー・オフィスとコラボレートしていたバルコニー社長氏。

(*2)廣木隆一監督。現在はかなりの高い評価を得ている実力派映画監督である。

■1989.9.3 雨の東名高速三回転。
◎中川談

「虫の知らせやろな。東京を出る寸前に、俺だけジャケット・デザインかなんかの仕事やってるヒデ坊と1日残ることにしたんや。当然、俺も乗ってたら、鈴木か俺が助手席に座ってた訳で、どっちかが死んでたことになるんや。次の日、豊橋のインターに止めてた事故車を見に行ったら、助手席なかったもんなぁ」

◎ベン談

「この時は、ワイパーを一番速いやつにしても、まったく効果がないほどの豪雨で、前を走る奥野君が120km/hも出してたから、危ないとは思ってたんや。その矢先、いきなりガードレールに突っ込んで、目の前でゴロゴロ3回転した訳やから、もう鈴木君共々、絶対死んだと思ったな。何が何かわからんまま近づいていったら、血まみれの2人が車から出てきて(笑)ホンマ、ホッとしたわ」

■1989.10.19 共演はARB
◎ベン談

「今度はARBと一緒にできるっていうことで、とてもハッピーな1日でした(笑)。合同打ち上げの時、ベラベラしゃべる中川氏を尻目に、内気な俺は緊張して、何も話せないのでした(笑)」

■1989.10.20 中川が「ザ・」ニューエスト・モデル解散発言
◎中川談

「世の中はバンドブームの最中、その頃のお客との関係にちょっと疲れてきてたんや。そこにもってきて、カメラのフラッシュの嵐やからね。セン切れて、気がついた時は、「解散宣言」をしてたんや。今にして思えば、あの頃のニューエストはそういうのんも含めて「エンターテイナー」やったと思うけどな」

■1989.10.24 じゃがたら
◎中川談

「ニューエストの出番はじゃがたらの次やってんけど、アケミがMCで“最近のガキは……”とか“最近の女共はウンヌンカンヌン……”とか煮え切らん話をしてたから、俺もMCで“最近のオッサンはアカン”みたいな話をしたんや、確か。2階席からアケミが“オマエはまだ青い”みたいなこと言うとったけどな(笑)。ニューエストの演奏は荒かったけど、なんかソウル・フラワーの道を確立したライブでもあったな」

■1989.11.3 床が落ちて急遽中止に。
◎奥野談

「リハが終わって楽屋で中川と鈴木が「将棋」をやってて、俺はそれを観戦してたんや。そろそろ用意でもしよかいなと思った時に、なんか会場の方が騒がしくなってきて、見に行ってみたら、床が抜けてた(笑)。それでも中川と鈴木は“この勝負が終わったら帰ろ”とか言うて、最後までやっとった(笑)」

■1989.11.14 長崎エアーズ・ロック・ホール
◎伊丹談

「なんでも、長崎の短波放送の番組で、1年間メスカリン・ドライヴの〈ノー・ノー・ガール〉が1位やったらしくて、その放送局で働いてた子のバンドが私らのライヴを企画してくれてん。張りきって宣伝してくれたみたいで、大入満員。うれしかったなー。すごくあったかい感じを今でも覚えてるわ」

■1989.11.25 東京:法政大・学祭。
◎内海談

「花火の舞台装置が凝ってて、あまりの煙に1曲目、必死でかきわけながら歌ったんを覚えてるな」

■1989.12.11 ソウル・フラワー4DAYS。
房之助のブルース・ナンバーでバック・バンドに徹するニューエスト(〈ソー・メニー・ロード〉、〈シスコ・キッド〉、〈ドント・レット・ミー・ダウン〉etc.)、ロック・クラシックスのカバーを連発するS・F・A・S等、その後のセッション・ブームを予感させる大盛り上がり。

[14日ソウル・フラワー・オール・スターズの演奏曲目]

  • ロードハウス・ブルース(ドアーズ)
  • サムバディ・トゥ・ラブ(ジェファーソン・エアプレイン)
  • リヴ・ウィズ・ミー(ローリング・ストーンズ)
  • ノット・フェイド・アウェイ(バディ・ホリー)~モナ(ボ・ディドリー)
  • ミスター・タンブリングマン(ボブ・ディラン)
  • ヘイ・ブルドッグ(ビートルズ)
  • ウェイト(バンド)
  • ギミー・シェルター(ローリング・ストーンズ)
  • マーシー・マーシー(ドン・コーベイ)
  • スタンド(スライ・アンド・ファミリー・ストーン)
■1990.1.13 渋谷公会堂。
◎奥野談

「結構、緊張してたんを覚えてるな。でも〈雑種天国〉(1曲目)のイントロの一瞬、こんなに気持ちエエことはあるんか?って思うぐらい気持ち良くて、ハイテンションのまま、最後まで行けたな、確か」

■1990.2.22 アルバム『クロスブリード・パーク』のレコーディングを行なう。
◎中川談

「「ニューエスト4人体制」のある意味でのピークやったと思う。ツアー、取材、レコーディングの繰り返しの中、ガンガン曲作る、すぐにライヴで演る、アレンジまとまったら、すぐシングルかアルバムでレコーディングする、みたいな。『クロスブリード・パーク』の中には、今聴いてもゾクッとするエエ瞬間があるな。「ロック」そのものってゆう感じ」

■1990.4.8 花と緑の万博(イベント「LIVEZEAL」)
◎伊丹談

「企画倒れのイベントやったなぁ。広いすりばち状の特設ステージにポツポツと家族連れが座ってて……、なんかデパートの屋上のウルトラマン・ショーの気分。本番直前迄、グルーヴァーズのメンバーと「魔法のじゅうたん」とか「3回転ジェットコースター」とかに乗ってはしゃぎ回ってて、演奏の方はヨレヨレやった(笑)」

■1990.4.24 大宮フリークス
◎太郎談

「当時東京に住んでて、久し振りに見に行ったんやけど、『クロスブリード・パーク』のレコーディングのすぐ後のライヴやったし、とにかくメンバー全員のテンションがやたら高くて、演奏もグッとしまってたな。中川のMCも冴えまくってたな」

■1990.5.3 ザ・ストリート・スライダーズ
◎内海談

「ステージの袖でストリート・スライダーズを見ようと思ったら、スタッフに“メンバーの気が散るので見るな”って言われて、さーすが大物はちゃうなって思ったわ」

■1990.5.19 奥野が正式メンバー
◎奥野談

「この頃からメスカリンのライヴに全編、入るようになった。間違った時、よくマオちゃんと目が合って、“しっかり弾けよ!”って怒られたな(笑)」

■1990.6.22 共演はティア・ドロップス。
◎奥野談

「なんかえらいハイテンションのライブで、最後にカッコよくキーボードを蹴っとばしたんよ(笑)。その後、引き際で鈴木とベンが踏んづけていってくれて(笑)、すぐにライヴがあるっていうのにキーボードが壊れてもうて、スタッフ一同みんな怒ってたな。それからしばらくの間、街でお客さんに会うたびに、“もうキーボード蹴らないんですか?”って言われた(笑)」

■1990.6.27 浅草常盤座
◎ベン談

「スタッフの女の子に一人、霊感の強い子がおって、その子が2階席で何か見たというもんやから、もうライブ中ずっと気になって気になって。2階席は絶対見ぃひんようにタイコ叩いてた」

■1990.7.2 河原リカ脱退。このライヴからドラムに高木太郎復帰。
◎伊丹談

「マオちゃんは加入時、大阪に住むことが条件やって、大阪ではケンちゃんと一緒に住んでてんけど、東京育ちの彼女としては結構しんどかったと思うわ。バンドに対してもちゃんと意見をもってたし、ドラマー病とも言うべき「腰痛」に悩みながらも良くやってくれたと思うよ」

◎太郎談

「復帰初ライヴやったから、すごくプレッシャーがあって、前の晩は全然寝られへんかったな。ライヴ中も緊張してガチガチで、終わる迄がエライ長く感じたな」

■1990.7.19 シングル用に〈外交不能症〉をレコーディングする。
◎中川談

「〈杓子定木〉をシングル・カットするから、カップリングに何か1曲新曲が必要、みたいな状況でテキトーに作ったんが〈外交不能症〉(笑)。詞曲作って、アレンジもテキトーなまま2~3日で仕上げたはずや。俺は気に入ってるけどね」

■1990.8.12 花道から落ちる
◎内海談

「あんな後ろ向きにピョンピョンはねてたら、落ちるでーって思ってたんや。落ちてからスタッフにかかえ上げてもらっとったけど、その時でも鈴木、カッコつけとったな(笑)」

■1990.9.17 内海がポリープであることが判明し、中断する
◎伊丹談

「いやー、ホンマ体力の限界に挑戦したわ。本来〈イデオロギー・クッキング〉も〈ブラッド・ゴー・ラウンド〉もヨーコちゃんが歌うはずやってんけど、ポリープ発覚と、まぁこの2曲の内容が私的なこともあって、話し合いの結果、私が歌うことになってん。なによりも初めて自分だけの声を再生したときのショックがデカかった…!コントール・ルームで“アイドル声”にみんなが爆笑してたことを私は忘れへん(笑)」

◎中川談

「夏頃からメスカリンの曲作りを横目で見てたんやけど、“とうとう来たかメスカリン”っていう感じの確かな手ごたえがあったんや、特に詞作にな。大嘗祭の最中、「もののけ」ならぬ「ヒロヒト」がついて(笑)、ヒデ坊は手やられるし(正中神経マヒ)、ヨーコちゃんはポリープになるしで、大変なレコーディングやったけど、結果的に俺や奥野が大きく参加することになって、次の『ユニバーサル・インベーダー』につながっていくんやね」

■1990.10.10 ドクターのドラムをベンが務める。
◎ベン談

「2バンド続けて叩いてわかったことは、前でギター持って歌ってる人が違うだけで、すべての雰囲気が変わるっていうことやった。ニューエストは暑苦しかった(笑)」

■1990.10.22 アルバム『イデオロギー・クッキング』のジャケット撮影。
◎太郎談

「NHKの特撮班の人がセットしてくれたあの火柱が予想以上にすごくて、一番近い位置でパンツ一丁でころがってた鈴木が“ホンマにアツイ!”って言いながらのたうちまわってたな(笑)」

■1990.11.17 京都:同志社大・学祭
◎奥野談

「この日は前日にブリーチやりすぎて髪の毛が真っ白になってもうてね(笑)。どーしようもなくそのまま行ったら、予想通り非難ごうごう。英ちゃん曰く“宝塚入ってんでー(笑)”。しばらくの間、「オオトリ」とか呼ばれてた(笑)」

■1990.11.23 ヒデ坊はハンドマイクでリード・ヴォーカル
◎伊丹談

「この辺はほとんど開き直りの世界やったな(笑)。いちいち悩んだりするぐらいやったら、自分が一番苦手で隠したい部分をバーンと見せてしまった方がエエんちゃうかと……。これ以上、下はないねんから、後は上がるだけみたいに考えたら、どんどん自分を変えていける気がしたな(笑)」

■1991.1.18 レコーディング再開。
◎伊丹談

「大勢の人に迷惑をかけたレコーディングやったけど、自分自身、生まれて初めて何かを成し遂げた感じがあったわ。」

■1991.2.7 ライヴを決行する。
◎伊丹談

「実はコレ、大変やってんでー。ライヴの2日程前にヨーコちゃんが失踪して。キャンセルっていう手もあったけど、場所が東京っていうこともあって、地方からわざわざ来てくれた人に申し訳ないし。結局入口に貼り紙をして決行してんけど、この頃はニューエストの2人(中川&奥野)に助けてもらってばっかりやったなー。まぁ、長いことやってるといろいろあるわな。二度とゴメンやけどな」

■1991.2.17 録れないリズム隊、録れない奥野によって超難航
◎中川談

「(レコーディングの前半)バンドとしては、ことごとくうまくいかんっていう感じやったな。俺個人とすれば、〈もっともそうな二人の沸点〉、〈ソウル・フラワー・クリーク〉、〈もぐらと祭り〉、〈報道機関が優しく君を包む〉みたいな曲がポンポン出てきた時期やったから、ガンガン前進したい訳やねんけど、「表現」の受け皿はむしろ、メスカリン・ドライヴ(特にヒデ坊)の方にあったな。ある程度ちやほやされて、ある程度エエ曲をプレイして満足できるような「男4人組」みたいなんは、俺はやりたないんや(笑)」

◎ベン談

「『ユニバーサル・インベーダー』のリズム録りはホンマ、みんなに迷惑をかけたと思います。この時のことを思い出すと、どんなに苦しい仕事でもできそうな気がするほど、悲惨やったと思う(笑)。でも、何かワンランク成長したような気もするな」

■1991.5.4 新宿パワーステーション。
[演奏曲目]

  • アイ・ドント・ライク
  • おはなみ列車
  • リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ
  • からまる・あ・お
  • 火の車
  • 檻の中
  • イデオロギー・クッキング
  • 迷宮新喜劇
  • マウンテン・バイク・フロム・ヘブン
  • ブラッド・ゴー・ラウンド
  • 闇の波間
  • ディア・アフターグロウ
  • クライ
  • ビッグ・バード
  • 龍宮へようこそ
  • ビッグ・ブレイク
  • ノスタルジア・シンドローム
  • 我が道を行く
  • 笑いっぱなしの島
  • [アンコール] アブソルートリィ・スウィート・マリー
  • アス・ホール
  • ノー・ノー・ガール
  • ディープ・モーニング・グロウ
■1991.6.21 ジャケットはヒデ坊の力作
◎伊丹談

「『リヴォルバー(ビートルズ)』のパロディー?よっしゃ!って気軽に引き受けてんけど、これはしんどかった(笑)。イラク戦争の真っ只中で、ブッシュもフセインも入れたれ、ついでにワンポイントでレーニンもスターリンも毛沢東も…ってことになって(笑)、絵は昔から好きで描いてたけど「オッサン」は余り描いたことなかったから(笑)。この後、しばらくの間、道行く「オッサン」の顔を妙にスケッチしたくなった(笑)」

■1991.7.11 渋谷公会堂。
[演奏曲目]

  • 十年選手の頂上作戦
  • エンプティ・ノーション
  • 世紀の曲芸
  • もっともそうな二人の沸点
  • 遊園地は年中無休
  • みんな信者
  • 杓子定木
  • 雲の下
  • 追いつ追われつ
  • ニュークリア・レース・オア・ヒューマン・レース
  • ラジエーション
  • 報道機関が優しく君を包む
  • 外交不能症
  • 車といふ名の密室
  • ソウル・サバイバー(インスト)
  • もぐらと祭
  • エスキモーのマイティ・クイン(ボブ・ディラン)
  • ソウル・フラワー・クリーク
  • 知識を得て、心を開き、自転車に乗れ!
  • ひかりの怪物
  • こたつ内紛争
  • 乳母車と棺桶
  • [アンコール] ヘイ・ポッキー・アウェイ
  • 雑種天国
  • 蒼白の祈祷師
■1991.10上旬 新ベーシスト、河村博司加入。
◎河村談

「メンバーとはニューエスト結成以前からの知り合いやってんけど、まさか自分が入るとは思いもせんかったな。話があった時は、自分のバンドもやってたし、ベース転向っていうのもあったから悩んでんけど、結局こっちの方が全然おもしろくて入ることにしたんやね」

■1991.12.9 奥野が踊り狂い、周囲を驚かす。
◎奥野談

「ボ・ガンボスの演奏が気持ちよかったから、単純に踊りで表現しただけや(笑)」

■1991.12.14〜16 新宿パワーステーション(ソウル・フラワー・3DAYS)
91年のフィナーレは、ニューエスト&メスカリンの一騎討ち。

メスカリンはカヴァー曲、P.P.アーノルドの〈グルーヴィー〉等をプレイ。連日のアンコール・セッションは、ツイン・ドラムで全員参加の〈ペイル・ブルー・アイズ(ヴェルヴェット・アンダーグラウンド)〉、〈ヘルター・スケルター(ビートルズ)〉、 〈ライク・ア・ローリング・ストーン(ボブ・ディラン)〉等々。15日のニューエストのライヴは、後々スペース・シャワーで放映される。

■1991.12.29 数々のロック・クラシックス
演奏された曲は、

〈スウェイ(ローリング・ストーンズ)〉、〈ムーヴィン・オン・アップ(プライマル・スクリーム)〉、〈フィーリン・オールライト(トラフィック)〉、〈クライ・ベイビー・クライ(ビートルズ)〉、〈ヘルター・スケルター(ビートルズ)〉、〈ライク・ア・ローリング・ストーン(ボブ・ディラン)〉、〈ペイル・ブルー・アイズ(ヴェルヴェッツ)〉等々。

■1992.2.16〜17 17日のライヴ
[17日の演奏曲目]

  • 報道機関が優しく君を包む〈PART.1〉
  • 嵐からの隠れ家
  • クライ・ベイビー・クライ(ビートルズ)
  • 車といふ名の密室
  • もっともそうな2人の沸点
  • 雑種天国
  • こたつ内紛争
  • たこあげてまんねん
  • 杓子定木
  • ソウル・サバイバーの逆襲
  • 死ぬのは奴らだ(ポール・マッカートニー)~コンティニューイング・オブ・バンガロー・ビル(ビートルズ)
  • 外交不能症
  • 蒼白の祈祷師
  • みんな信者
  • ひかりの怪物
  • 十年選手の頂上作戦
  • ソウル・フラワー・クリーク
  • 知識を得て、心を開き、自転車に乗れ!
  • [アンコール] フィーリン・オールライト(トラフィック)
  • ヘルター・スケルター(ビートルズ)
  • エンプティ・ノーション
  • 秋の夜長
■1992.2.29 大阪アム・ホール。
◎中川談

「ニューエストの中でも、このツアーは光ってるな。ハッキリと覚えてるのは、毎回毎回楽しめたっていうこと。この時点でもう俺の頭の中には、“ソウル・フラワー・ユニオン結成”があったな。」

■1992.3.25 「F.F.F.」 と共演。
◎奥野談

「「F.F.F.」の奴らってホマ調 子エエ奴らでね。ライヴ後、“君らはグレートだ。ぜひフランスに来て、一緒にライヴを演ってほしい”って言うから、楽しみに待ってたんよ。しばらくしてなんかの雑誌に「ビブラストーン VS F.F.F.」っていうフランスでのライヴ記事が載ってた(笑)」

■1992.6.14 ビリー・ブラッグと対談
中川
「「国際的」ということを考えるにしても、大事なのは「混ぜる側」と「混ぜられる側」がおるということやね」ビリー・ブラッグ
「その通り。「混ざり合う」時には、まず「分かち合う」ってことが必要なんだ。お互いが共通点を探ることを通じて、新しい文化を持った社会ができていくんだと思う。英語と日本語をただ混合することによって新しい文化が生まれるなんて考え方はクソくらえだ。」中川
「全く同感。フィル・オクスの〈アイ・エイント・マーチン・エニィモア〉のような、「自己批判」も含みつつ、「抑圧されてる側」からの視座も忘れない曲っていうのに、俺は「ソウル」っていう定義を与えたいと思う」(ミュージック・マガジン92年8月号より抜粋)
■1992.6 大木正博(現在、ばるぼら)加入。
◎河村談

「ベンが年内で脱けることが決まって、俺の前々からの知り合いやった大木に声かけて、セッションすることになったんや。「ランブルフィッシュ」っていうブルース系のバンドで叩いとったこともあって“テクはないけど、イキオイがある”っていうことで、即決やった。何よりおもしろい奴やっていうことでバンドが一気に盛り上がったな」

■1992.8.1 奥野&内海演奏する。
◎奥野談

「トム・ウェイツの曲を演ったんや。この日、他のメンバーはあの伝説のボ・ガンボス西部講堂に行っててね。俺もそっちに行きゃよかった(笑)」

■1992.8.9 大木初ライヴ。
◎大木談

「初ライヴがいきなり数千人の前やったから、メンバーとかスタッフにすごい気を遣ってもらったみたい。にもかかわらず俺はあんまり興奮も緊張もなく、ポケーっとしてたな」

■1992.9.22 チャンプルーズと初共演。
◎中川談

「エエ出会いやった。喜納昌吉個人に対する興味はもちろんのこと、チャンプルーズっていうバンドにすごい親しみを覚えたんや。とにかく似てたんやな、ソウル・フラワーのありように。一緒に音楽が演りたい、演れる!っていうことを本質的なところで感じられた初めてのバンドやったな」

◎大木談

「本番前、トイレで昌吉さんと2人っきりになって、小便しながら熱く話してもらったんや。そのすごいパワーとテンションに圧倒されて(笑)、半分ぐらいしか聞き取れへんかってんけど、後からえらい元気が出てきたのを覚えてる」

■1992.10.4 後にソウル・フラワー・ユニオン『カムイ・イピリマ』として世に出る
キング・レコードと制作費の面で折り合わず、リズム録りを終えた段階で中断。

93年、キューン・ソニー・レコードに移籍後、レコーディングを再開する。後にソウル・フラワー・ユニオンのファースト・アルバム『カムイ・イピリマ』としてリリースされる。

■1992.11.25 〈シスター・セイ・ノー〉、〈ムーヴ・オン・ファースト〉をレコーディング。
◎伊丹談

「このレコーディングは楽しかったな。仲間がいて、ひとつのものを作ってる感じがしたなぁ。私にとっては「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成するきっかけとして、このレコーディングはデカかったな」

■1992.12.12〜14 14日はセッションで西村茂樹(ラウドマシーン)。
魂花連完全年表 注記 西村氏とソウル・フラワー・オールスターズはティム・バックリィの曲やラウドマシーンの〈リヴェンジ〉を演る。この日の模様は、ビデオ『ソウルシャリスト・パーティ』として発売された。
■1992.12.25〜27 26日はA-MUSIK、27日はベンのラスト・ライヴ
◎河村談

「26日のA-MUSIK(アームジーク)で俺と中川が共演したんや。曲はヴィクトル・ハラの〈平和に生きる権利〉やった。千野さんと中川の2ショットはスゴかったらしいな(笑)。最終日はベンのラスト・ライヴっていうことも手伝ってか、テンション高くて、自分ではベスト・ライヴやと思うな」