1989-1992 EPISODE
■1989.1.7 次作収録予定曲の歌詞を大幅に書き換える。 |
◎中川談
「確かこの時に書き上げたんが〈こたつ内紛争〉、〈ソウル・サバイバーの逆襲〉、〈まどろみ〉あたりの曲や。合宿の真っ最中に天皇ヒロヒトが死んで、なんかモヤモヤした気分をその辺の曲にブチまけた覚えがあるな」 |
■1989.1.17 渋谷ラ・ママ(ワンマン) |
◎伊丹談
「このころは日本語詞を書き初めた時期で、ツアーの車中ずっと70年代のフォークとか歌謡曲がかかってたんや。その中から一曲遊びで演ろっていう話になって、初期RCの〈金儲けのために生まれたんじゃないぜ〉を演ったら、非難ごうごうで(笑)。原曲を知らん人からしたら、ヘタなメッセージ・ソングをやってるようにしか見えへんかったんやろうな」 |
■1989.4.8 カップリングの〈ニュー人生ゲーム〉、〈団結は力なり〉も録る。 |
◎中川談
「このレコーディングの2日前にビリー・ブラッグのライヴを見たんや(大阪ファンダンゴ)。そのライヴが良かって、妙に盛り上がって、急遽、〈団結は力なり〉の短いインストを録ることにしたんやね」 |
■1989.5.7 アルバム『ソウル・サバイバー』のレコーディング。 |
◎中川談
「とにかく嬉しかったんは、時間がかけれるってことやった。もう『プリティ・ラジエーション』ででけへんかったことは全部やったれーって調子やったな。今聴くとダビング過剰なトコもあるけど、当時は生ピアノが使えたことと、ホーン・セクションを導入できたことが、ホンマ嬉しかったんや」 |
■1989.5.13 川崎クラブ・チッタ |
◎ベン談
「ザ・ロックバンド(アナーキー)のコバン(ドラム)に“ファンなんです。サインして下さい”とか言って、スネア・ケースにサインしてもらって、おまけに握手してもらって、とてもハッピーな1日でした(笑)」 |
■1989.10.19 共演はARB |
◎ベン談
「今度はARBと一緒にできるっていうことで、とてもハッピーな1日でした(笑)。合同打ち上げの時、ベラベラしゃべる中川氏を尻目に、内気な俺は緊張して、何も話せないのでした(笑)」 |
■1989.10.20 中川が「ザ・」ニューエスト・モデル解散発言 |
◎中川談
「世の中はバンドブームの最中、その頃のお客との関係にちょっと疲れてきてたんや。そこにもってきて、カメラのフラッシュの嵐やからね。セン切れて、気がついた時は、「解散宣言」をしてたんや。今にして思えば、あの頃のニューエストはそういうのんも含めて「エンターテイナー」やったと思うけどな」 |
■1989.11.3 床が落ちて急遽中止に。 |
◎奥野談
「リハが終わって楽屋で中川と鈴木が「将棋」をやってて、俺はそれを観戦してたんや。そろそろ用意でもしよかいなと思った時に、なんか会場の方が騒がしくなってきて、見に行ってみたら、床が抜けてた(笑)。それでも中川と鈴木は“この勝負が終わったら帰ろ”とか言うて、最後までやっとった(笑)」 |
■1989.11.14 長崎エアーズ・ロック・ホール |
◎伊丹談
「なんでも、長崎の短波放送の番組で、1年間メスカリン・ドライヴの〈ノー・ノー・ガール〉が1位やったらしくて、その放送局で働いてた子のバンドが私らのライヴを企画してくれてん。張りきって宣伝してくれたみたいで、大入満員。うれしかったなー。すごくあったかい感じを今でも覚えてるわ」 |
■1989.11.25 東京:法政大・学祭。 |
◎内海談
「花火の舞台装置が凝ってて、あまりの煙に1曲目、必死でかきわけながら歌ったんを覚えてるな」 |
■1990.1.13 渋谷公会堂。 |
◎奥野談
「結構、緊張してたんを覚えてるな。でも〈雑種天国〉(1曲目)のイントロの一瞬、こんなに気持ちエエことはあるんか?って思うぐらい気持ち良くて、ハイテンションのまま、最後まで行けたな、確か」 |
■1990.4.8 花と緑の万博(イベント「LIVEZEAL」) |
◎伊丹談
「企画倒れのイベントやったなぁ。広いすりばち状の特設ステージにポツポツと家族連れが座ってて……、なんかデパートの屋上のウルトラマン・ショーの気分。本番直前迄、グルーヴァーズのメンバーと「魔法のじゅうたん」とか「3回転ジェットコースター」とかに乗ってはしゃぎ回ってて、演奏の方はヨレヨレやった(笑)」 |
■1990.4.24 大宮フリークス |
◎太郎談
「当時東京に住んでて、久し振りに見に行ったんやけど、『クロスブリード・パーク』のレコーディングのすぐ後のライヴやったし、とにかくメンバー全員のテンションがやたら高くて、演奏もグッとしまってたな。中川のMCも冴えまくってたな」 |
■1990.5.3 ザ・ストリート・スライダーズ |
◎内海談
「ステージの袖でストリート・スライダーズを見ようと思ったら、スタッフに“メンバーの気が散るので見るな”って言われて、さーすが大物はちゃうなって思ったわ」 |
■1990.5.19 奥野が正式メンバー |
◎奥野談
「この頃からメスカリンのライヴに全編、入るようになった。間違った時、よくマオちゃんと目が合って、“しっかり弾けよ!”って怒られたな(笑)」 |
■1990.6.27 浅草常盤座 |
◎ベン談
「スタッフの女の子に一人、霊感の強い子がおって、その子が2階席で何か見たというもんやから、もうライブ中ずっと気になって気になって。2階席は絶対見ぃひんようにタイコ叩いてた」 |
■1990.7.19 シングル用に〈外交不能症〉をレコーディングする。 |
◎中川談
「〈杓子定木〉をシングル・カットするから、カップリングに何か1曲新曲が必要、みたいな状況でテキトーに作ったんが〈外交不能症〉(笑)。詞曲作って、アレンジもテキトーなまま2~3日で仕上げたはずや。俺は気に入ってるけどね」 |
■1990.8.12 花道から落ちる |
◎内海談
「あんな後ろ向きにピョンピョンはねてたら、落ちるでーって思ってたんや。落ちてからスタッフにかかえ上げてもらっとったけど、その時でも鈴木、カッコつけとったな(笑)」 |
■1990.10.10 ドクターのドラムをベンが務める。 |
◎ベン談
「2バンド続けて叩いてわかったことは、前でギター持って歌ってる人が違うだけで、すべての雰囲気が変わるっていうことやった。ニューエストは暑苦しかった(笑)」 |
■1990.10.22 アルバム『イデオロギー・クッキング』のジャケット撮影。 |
◎太郎談
「NHKの特撮班の人がセットしてくれたあの火柱が予想以上にすごくて、一番近い位置でパンツ一丁でころがってた鈴木が“ホンマにアツイ!”って言いながらのたうちまわってたな(笑)」 |
■1990.11.17 京都:同志社大・学祭 |
◎奥野談
「この日は前日にブリーチやりすぎて髪の毛が真っ白になってもうてね(笑)。どーしようもなくそのまま行ったら、予想通り非難ごうごう。英ちゃん曰く“宝塚入ってんでー(笑)”。しばらくの間、「オオトリ」とか呼ばれてた(笑)」 |
■1990.11.23 ヒデ坊はハンドマイクでリード・ヴォーカル |
◎伊丹談
「この辺はほとんど開き直りの世界やったな(笑)。いちいち悩んだりするぐらいやったら、自分が一番苦手で隠したい部分をバーンと見せてしまった方がエエんちゃうかと……。これ以上、下はないねんから、後は上がるだけみたいに考えたら、どんどん自分を変えていける気がしたな(笑)」 |
■1991.1.18 レコーディング再開。 |
◎伊丹談
「大勢の人に迷惑をかけたレコーディングやったけど、自分自身、生まれて初めて何かを成し遂げた感じがあったわ。」 |
■1991.10上旬 新ベーシスト、河村博司加入。 |
◎河村談
「メンバーとはニューエスト結成以前からの知り合いやってんけど、まさか自分が入るとは思いもせんかったな。話があった時は、自分のバンドもやってたし、ベース転向っていうのもあったから悩んでんけど、結局こっちの方が全然おもしろくて入ることにしたんやね」 |
■1991.12.9 奥野が踊り狂い、周囲を驚かす。 |
◎奥野談
「ボ・ガンボスの演奏が気持ちよかったから、単純に踊りで表現しただけや(笑)」 |
■1992.2.29 大阪アム・ホール。 |
◎中川談
「ニューエストの中でも、このツアーは光ってるな。ハッキリと覚えてるのは、毎回毎回楽しめたっていうこと。この時点でもう俺の頭の中には、“ソウル・フラワー・ユニオン結成”があったな。」 |
■1992.3.25 「F.F.F.」 と共演。 |
◎奥野談
「「F.F.F.」の奴らってホマ調 子エエ奴らでね。ライヴ後、“君らはグレートだ。ぜひフランスに来て、一緒にライヴを演ってほしい”って言うから、楽しみに待ってたんよ。しばらくしてなんかの雑誌に「ビブラストーン VS F.F.F.」っていうフランスでのライヴ記事が載ってた(笑)」 |
■1992.6 大木正博(現在、ばるぼら)加入。 |
◎河村談
「ベンが年内で脱けることが決まって、俺の前々からの知り合いやった大木に声かけて、セッションすることになったんや。「ランブルフィッシュ」っていうブルース系のバンドで叩いとったこともあって“テクはないけど、イキオイがある”っていうことで、即決やった。何よりおもしろい奴やっていうことでバンドが一気に盛り上がったな」 |
■1992.8.1 奥野&内海演奏する。 |
◎奥野談
「トム・ウェイツの曲を演ったんや。この日、他のメンバーはあの伝説のボ・ガンボス西部講堂に行っててね。俺もそっちに行きゃよかった(笑)」 |
■1992.8.9 大木初ライヴ。 |
◎大木談
「初ライヴがいきなり数千人の前やったから、メンバーとかスタッフにすごい気を遣ってもらったみたい。にもかかわらず俺はあんまり興奮も緊張もなく、ポケーっとしてたな」 |
■1992.10.4 後にソウル・フラワー・ユニオン『カムイ・イピリマ』として世に出る |
キング・レコードと制作費の面で折り合わず、リズム録りを終えた段階で中断。
93年、キューン・ソニー・レコードに移籍後、レコーディングを再開する。後にソウル・フラワー・ユニオンのファースト・アルバム『カムイ・イピリマ』としてリリースされる。 |
■1992.11.25 〈シスター・セイ・ノー〉、〈ムーヴ・オン・ファースト〉をレコーディング。 |
◎伊丹談
「このレコーディングは楽しかったな。仲間がいて、ひとつのものを作ってる感じがしたなぁ。私にとっては「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成するきっかけとして、このレコーディングはデカかったな」 |
■1992.12.12〜14 14日はセッションで西村茂樹(ラウドマシーン)。 |
魂花連完全年表 注記 西村氏とソウル・フラワー・オールスターズはティム・バックリィの曲やラウドマシーンの〈リヴェンジ〉を演る。この日の模様は、ビデオ『ソウルシャリスト・パーティ』として発売された。 |
■1992.12.25〜27 26日はA-MUSIK、27日はベンのラスト・ライヴ |
◎河村談
「26日のA-MUSIK(アームジーク)で俺と中川が共演したんや。曲はヴィクトル・ハラの〈平和に生きる権利〉やった。千野さんと中川の2ショットはスゴかったらしいな(笑)。最終日はベンのラスト・ライヴっていうことも手伝ってか、テンション高くて、自分ではベスト・ライヴやと思うな」 |