1982-1988 EPISODE

1982-1988 EPISODE

■1984.12.1 最初のスタジオ・セッション。
◎伊丹談

「その頃、人のライブ観たりMTV見たりしてもなんか“聴きたいのはそんなんちゃうねん”みたいな…音楽飢餓状態やってんね。で、他人に期待してもラチあかんっていうことになって…、その頃の連れ(友達)に声かけて、この4人がとりあえず集まったんや。

“メスカリン・ドライヴ”ていうバンド名は、私が中学の頃読んだお気に入りの詩集の中にあった言葉で、“多種多様な色(個性)が集まり、幻想的で独特な景色が出来る”っていうような内容やったと思う」

■1984.12.18 ヴォーカル内海洋子と初セッション。
◎伊丹談

「洋子ちゃんと会ったんはホンマ偶然やった。その当時、女のヴォーカリストって言うたら、キンキン声の、浜田麻里みたいなんばっかりで…、やっぱり私としてはミック・ジャガーとかパティ・スミスみたいなヴォーカルがええと思ってたから、なかなか難しいわなぁ。それが、誘われて渋々行った学祭で〈ホンキー・トンク・ウィメン〉を歌い踊る“丸い”女の子を見かけて、“オー、あれええやん”ってことになったんやね。我ながら、先見の明があったと思うわ」

◎内海談

「メスカリン加入以前も大学のサークルでジャニスとかストーンズのコピーなんかをやっててんけど、その“続き”の乗りで気楽に入ったつもりが、入ってすぐにオリジナルを作り始めて。ヒデちゃんに“曲、考えてきてや”って言われた時は、“これはマズイことになった”って、あせった(笑)」”

■1985.6.1 京都磔磔
◎伊丹談

「初めてのライブハウスが“磔磔”やなんて、いっぱしのテクニシャン・バンドみたいや。でも、これ実はギターのリリーが以前やってたバンドの“コネ”で取ってきたブッキングやってん。デモ・テープも無かったし、何と言っても恐るべきことに、私はギターを持って半年も経ってないねんでぇ…。“何も知らん”っていうことは“強い”。お客さんも対バンのお陰でいっぱいやったしな。ライブ終了後“若いのにえらいヘヴィーなリズムのバンドやねぇ”ってライブハウスの人に褒めてもらってんけど、実のところ、それ以上速いリズムで演奏でけへんかっただけ(笑)」”

■1985.12 本格的にリハーサルを開始する。
◎中川談

「それ迄ストーンズ・スタイルで3つ程バンドを経てきて、正直飽きがきてた。それに、凡百とあるくだらん“オリジナルやってんねんけどストーンズのコピー・バンド”達と同じ文脈で語られんのも嫌やったしね。で、音楽面でも少人数でしかもアグレッシヴな、初期のフーのようなバンドがやりたいと思うようになってきたんや。初期のジャムがモータウンのカバーやる、あの感じやね。その思惑がクラッシュとか好きやった高木やベンとうまく波長あったトコやろうね」

◎ベン談

「高木から夜中の2時頃“終電なくなったから車で迎えに来てくれ”って電話があったんや。行ったら中川と高木2人でそこにおって、その時にバンドに誘われたんやね。その頃は他のバンドでもタイコ叩いてたからちょっと迷ってんけど、“ヘルプでもいいから”とかなんとか上手いこと説得されて、とりあえず2つのバンドでやることになったんや。結局半年後には、ニューエストの方が音楽的に面白かったから、もう1つのバンドの方はやめてんけど」

◎伊丹談

「メスカリンを始めた頃、メンバーとよく行ったロック喫茶のレジで、ある日お金を払ってたら、“ライブでよう会う子ちゃうん?”って妙に気さくに声かけてきた軽い兄ちゃんがおったんや。それが中川で、その頃首にいつもスカーフなんか巻いたりして、いかにもストーンズ・フリークって感じやったな。その後私もそこで一時バイトしてて、ある日髪の毛をビンビンに立てた高木と暗いベンが店に来て、さぞやイカツイ人らなんやろうなぁと思って注文取りに行ったら、“あったかいミルクティーとレモンティー下さい”(笑)。かわいい注文やった(笑)」

■1986.1 レコーディングした
◎中川談

「だいぶ前(1984年頃)から彼女らのことは知っててね。音楽の趣味が似てたから何かのライヴ観に行ったらバッタリ会ったり、俺のバイトしてたロック喫茶に連中が客としてきたり、なんにせよハデやった!(笑)初めてヒデ坊(伊丹)としゃべった時、あの人はニューヨーク・ドールズのTシャツ着ててね。まだ全然ジョニー・サンダースなんか日本で知られてなかった頃やから、妙に話が合う訳や。で、「バンド作ってん。デモ・テープ聴いてや」ってことになって聴かせてもらってんけど、これがまたスゴイ。シルバーヘッドの〈ハロー・ニューヨーク〉やで(笑)。何物やねん。何時代やねん(笑)。でもまぁ、俺の耳に強烈に残ったんは、やっぱりアンペッグのギター・サウンドに洋子ちゃんのあのヴォーカルや。“ちょっとうかうかしてられへんで”ってな感じやったね」

◎伊丹談

「このレコーディングは全部で2時間。トラック・ダウンも入れてやで。3曲続けて“一発録り”の“テープ回しっぱなし”で、曲間の“雑談”や“笑い”を曲のイントロにオーバーダブしたりして、余裕を見せてる(笑)」

◎内海談

「誰かが間違えても、録り直しなんて全然せえへんような、いい加減な乗りで、どんどん録っていったんや。ミックスも録りつつやるって感じやってんけど、ミキサーの人や手伝い伝いに来てくれてた子らがハード・ロック指向で、エアロスミス風のサウンドにしようとしてたんを、ヒデちゃんが昂然と阻止してたんを覚えてる(笑)」

■1986.1.3 レコーディング
◎中川談

「だいぶ前(1984年頃)から彼女らのことは知っててね。音楽の趣味が似てたから何かのライヴ観に行ったらバッタリ会ったり、俺のバイトしてたロック喫茶に連中が客としてきたり、なんにせよハデやった!(笑)初めてヒデ坊(伊丹)としゃべった時、あの人はニューヨーク・ドールズのTシャツ着ててね。まだ全然ジョニー・サンダースなんか日本で知られてなかった頃やから、妙に話が合う訳や。で、「バンド作ってん。デモ・テープ聴いてや」ってことになって聴かせてもらってんけど、これがまたスゴイ。シルバーヘッドの〈ハロー・ニューヨーク〉やで(笑)。何物やねん。何時代やねん(笑)。でもまぁ、俺の耳に強烈に残ったんは、やっぱりアンペッグのギター・サウンドに洋子ちゃんのあのヴォーカルや。“ちょっとうかうかしてられへんで”ってな感じやったね」

◎伊丹談

「このレコーディングは全部で2時間。トラック・ダウンも入れてやで。3曲続けて“一発録り”の“テープ回しっぱなし”で、曲間の“雑談”や“笑い”を曲のイントロにオーバーダブしたりして、余裕を見せてる(笑)」

◎内海談

「誰かが間違えても、録り直しなんて全然せえへんような、いい加減な乗りで、どんどん録っていったんや。ミックスも録りつつやるって感じやってんけど、ミキサーの人や手伝い伝いに来てくれてた子らがハード・ロック指向で、エアロスミス風のサウンドにしようとしてたんを、ヒデちゃんが昂然と阻止してたんを覚えてる(笑)」

■1986.2.1 デモ・テープを作成。
◎伊丹談

「印象的な歌詞のノリ具合と、歌メロっぽいギター・ソロがすごく気に入って、友達にダビングして聴かせたりしたな」

◎中川談

「ちょっと前に俺がバイトしてたロック喫茶に、客で来てたメスカリンのメンバーがウォークマンで彼女らのデモ・テープを聴かしてくれてね。それがあまりに俺にとって衝撃的な作品で、俺らもちゃんとデモ・テープ作らなあかんってことになつた訳や。その頃のニューエストはまだ“パンク”っていうよりは、ジャムみたいな“ブリティッシュ・ビート”のバンドやったな。2トーン風のスカとかも演ってた」

◎河村談

「実はこのレコーディングには立ち会ってて。その頃のニューエストはいわゆる“パンク=モッズ”風のバンドやってんけど、あくまでメロディ重視っていう所はその頃から既に確固たるもんとしてあったな。たぶんそれは、俺にとってもパンクに興味を引かれるキッカケにもなったと思うわ。その頃の中川の声は、まだ歌い始めで、今からは想像出来へん程かわいらしかった(笑)。中川とは、同じロック喫茶でバイトしてた頃からの付き合いで、その頃、好きなレコードをかける優先権をことごとく中川に奪われて、ストーンズとかばかり聴かされたな。機先を制するのは、その頃から天下一品やったで(笑)」

■1986.3.13 対バンはメスカリン・ドライヴ
◎中川談

「(ニューエストの)初ライヴの対バンは気に入ってる身内のバンドとやろうと思ったんや。それにメスカリンがイエロー・ブルースの連中とか、所謂“バッド・ボーイズ・ロック”の連中とかとお茶を濁し、埋もれたままでいるのも釈然とせえへんかったしね。“こちら側(パンク、ニューウェイヴ)に来いや”って意味合いもあったな。で、この時初めてライヴを観てんけど、やっぱり洋子ちゃんのヴォーカルは当時から他と一線を画してたで。演奏も別の意味でスゴかったけどな(笑)」

◎ベン談

「メスカリンはバンド名だけ知ってて、実際に見たんはこの時が初めてやってんけど、異様に派手やったな。派手さのあまり、楽屋の中が人でいっぱいになってるような錯覚をする程やった(笑)」

■1986.4.13 奥野真哉が偶然、客としてニューエストを初めて観る。
◎奥野談

「対バンのルード・ボーイズの方を観に行ったんやけど、たまたま最初にニューエストが出てきて、とにかく中川の声のデカさにびっくりしたんや。なにせ楽器よりも声の方がデカかってんもんな。以前からチラシとかで名前は知っててんけど、そのチラシを見て、すごい顔のデカい人達やなぁって印象を持っててね(笑)」

■1986.5.2 大阪キャンディホール。
◎内海談

「客がレッド・ウォーリアーズ目当ての女の子ばっかりで、殆どの子が“席取りの為にそこにおる”っていう感じやったな。ヒデちゃんの初代アンペッグは火を吹くし、問題の多いライヴやったわ」

◎伊丹談

「洋子ちゃんのすぐ前の女の子が、ライブ中ずっと手紙みたいなもんを書いてて、“洋子ちゃんやりにくいやろなー”って思っててん。“聴けへんねやったら後ろ行けや”みたいな気になってヒョイって足で合図しようと思ったら、その子のアゴに思いっきり命中してしもうて、後でライヴハウスの人にしかられてんけど、メンバー大爆笑やったわ。暴力はあかんで、暴力は(笑)。でもその子、メスカリンのライヴに良く来てくれてたなぁ(笑)」

■1986.6.30 3曲レコーディングする。
◎伊丹談

「その頃ニューエストは月1のペースでエッグ・プラントに、メスカリンは磔磔に出演してて、お互いブッキングが悩みの種やったから、それやったら紹介しあおうっていうことになって、磔磔にテープ持って行ったりしてたわ。その時ソノシート用の3曲を聴かせてもらってんけど、“いきなりパンク色が強くなったなぁ”っていう印象を持った覚えがあるわ」

■1986.8上旬 自主制作で発売。
◎中川談

「プレス工場から送られてきた現物を見た時はホンマうれしかったね。なんせソノシートと言えども、全部自分らで作った「レコード」な訳やからね。しかし暑さに弱い「レコード」やったなぁ(笑)。1000枚売るのに必死やった」

■1986.8.4 奥野、初めてメスカリンを体験。
◎奥野談

「中川に“奥野の好きそうな音やで”とか言われて一緒に観に行ったんやけど、メンバーがステージに現れた時のインパクトは今でもハッキリ覚えてるで。洋子ちゃんは頭一面に花をつけて真っ白なウェディング・ドレス(笑)、あとのメンバーも超ド派手な格好で、一体この人ら何物やねんみたいな世界やった」

■1986.8.7 初の東京ライヴ。
◎ベン談

「生まれて初めての東京やったから、“ああ、これが花の都東京かぁ”って妙に感動したわ(笑)。別に東京に憧れてた訳やないねんけど、みんな東京弁でしゃべってて気持ち悪かった。テレビドラマの中に入り込んだみたいな変な感じで」

■1986.8.11 初の東京ライブ。
◎内海談

「対バンが最悪。某化粧バンドやって、私らを楽屋から締め出して3時間も化粧してて、ほんまどついたろかと思ったわ」

■1986.10下旬 奥野真哉、ニューエストに加入。
◎奥野談

「しきりにセッションに誘われてたから、なんとなく加入の予感みたいなもんはあってんね。楽曲は知ってたから前々からギターでコピーとかはやっててんけどなぁ」

◎中川談

「残念ながら奥野のギターはひどかった(笑)。とりあえずセッションが終わって、奥野には“また電話するわ”とか何とか行って帰らせてんけど、その後、高木と2人でえらい困ったんを憶えてるわ。揚げ句、“キーボード弾かしてみよか” っていうことになった訳や(笑)」

■1986.11.5 奥野(オルガン)加入後の初ライブ。
◎ベン談

「このツアーは、奥野の初ライヴということもあってんけど、やっぱり何と言っても初めての「車故障」に尽きるな。この日をきっかけに車にまつわる事件が多発するんやけど、そのほとんどに奥野が関係してるんやな(笑)」

◎奥野談

「初めてっていうことで、なんか大阪出る前からすごい緊張しててんけど、東名高速の途中で車がぶっ壊れてしもて、張ってた神経がプツーンと切れてもうてねぇ。その後、東京でライブが終わる迄調子狂いっぱなしやったわ。……途中東名降りて修理工場に行った時、その待ち時間に田んぼの真ん中で--すごい「田舎」やってんや--〈ルック・アウト〉のキーボード・ソロ練習やったわ」

■1986.12 結局ヒデコのギター1本でやっていくことに決まる。
◎中川談

「何人かセッションしてたみたいやけど、兎に角、メタルか単に古くさい無個性なロックンロール・ギタリストみたいなんしかおらんかったからな。何はともあれ、ここでギタリスト入れへんかったんは“正解”やった訳や。後の“歴史”が証明してるわな」

#この年、オリジナル曲以外で取り上げたカヴァー曲は、ジェファーソン・エアプレインの〈サムバディ・トゥ・ラヴ〉、ストーンズの〈リヴ・ウィズ・ミー〉等。

◎伊丹談

「洋子ちゃんはステージと普段があまりにも違うんで、練習スタジオとかでも、ちゃんとおんのに“ヴォーカルの人、練習に来えへんねんなぁ”とか良く言われた。MCもその頃は全部英語やったし…ホンマ、謎のヴォーカリストやったわ」

■1987.1.31 ラウドマシーン改名GIG。
◎中川談

「今をときめくルーズが改名するっていうんで、とにかくロフトは超満員。ライブハウスであそこまで沢山の人の前で演るのんは、ニューエストとしては初めてのことやったから、異常に燃えたな。確か、この頃から固定客もつきだして、ライヴ活動にますます拍車がかかる訳やね」

■1987.2.28 2度目の共演。
◎内海談

「この時初めてちゃんと見た訳やねんけど、「パンク」にしては変でね(笑)。カバーも〈タッチ・ミー〉なんかを演ったりして、そのいやらしい歌い方が上手くアレンジに嵌まってて、“何者なんや”っていうのが実感やった。この日最後にセッション(サム・クックの〈シェイク〉)演ってんけど、これがまた極力にタテノリ(リズム隊はニューエスト)で、ついていくのに必死やったわ」

■1987.2.28 4人編成で初ライヴ。
◎中川談

「この頃のメスカリンは、所謂“変革期”やった。ハードロック出のギタリストが脱けて4人編成になって、音楽的方向性もほぼ定まった感じやった。別に狙う訳でもないのに何故か演奏がサイケデリックというかガレージっぽくなるんやね。それはヒデ坊とか洋子ちゃんのバックボーンが自然と反映した結果やねんけど、その頃はメスカリンみたいなバンドが他に無いことも手伝ってか、徐々に周りが注目し始めるんやね」

◎河村談

「働いていたロック喫茶でヒデちゃんとか当時のメンバーと初めて会ったんやけど、ホンマ“やさしいお姉さん達”(笑)ゆう感じやった。ヒデちゃんはその頃からパッと明るい花みたいな感じがあってね。この日ちゃんとライヴを観るねんけど、その“ニューヨーク・パンク”っぽい音は当時他に無かったし、特に“謎のバイリンガル・ヴォーカル”は圧倒的やったな」

◎ベン談

「人数は減ってんけど、“派手さ”は衰えるどころか増々磨きがかかっとった(笑)」

■1987.3.14 ソノシートのレコーディング。
◎中川談

「〈コカイン・ベイビー〉でギターを演らしてもらったんや。人のレコードで弾くのなんか当然初めてのことやねんから、マジメに取り組んでもええ筈やのに、今聴いたら結構適当やねんな(笑)。結局、このソノシートも1000枚作ってんけど、評判良くて、ニューエストの時よりも全然早く売り切れたんや」

■1987.4.18 ソノシートのジャケット撮影
◎伊丹談

「デモテープの時とは逆で、今度はニューエストのソノシートを見て、作りたくなったんやね。このジャケット撮影の場所は丹波橋のラブホテルの非常階段で--この日、そのラブホテルの一室でサイケ・イベントのライヴがあってん--今考えても変なイベントやった。ジャケットの印刷代が思ったより高くかかって、私は借金地獄に突入するんやね(笑)」

■1987.4.20 EP発売
◎奥野談

「俺にとって初めてのレコードやったから、当然すごくうれしかった。うれしさのあまり、家の近所のレコード屋に置いてくれって持っていってんけど、全部断られてもうて(笑)」

■1987.5.14 京都ビッグバン
◎奥野談

「打上げの後、高木(ベース)が途中ではぐれてしもて“おかしいなぁ”とか言って探したら、その辺のヤンキーと大ゲンカしてたんや。この頃、ケンカやいざこざが多くて、音楽におさまりきらへんパワーに満ちとったな。そんなこんなでこの半月後には俺が車にはねられんねんな、かっこエエやろ(笑)」

■1987.5.26 京都磔磔
◎奥野談

「この時初めてメスカリンの運転手として同行してんけど、ヒデちゃんに“気つけて、慎重に、早く行って。ホンマ気つけてな”(笑)って言われて、“これは俺は頼りにされてへん。一発エエとこ見せとかな”って思ったら、次の日駐禁とられとって、“こらアカンわ”って落ち込んだんを憶えてる」

■1987.6.3 奥野が車にはねられ重傷を負う。
◎ベン談

「ライヴが終わって飲みに行ったんやけど、なぜか奥野はそこにおらんかったんや。しばらくして、帰ろうかと思ってたら、“奥野が車にはねられた”って連絡が入って」

■1987.6中旬 ベースのケイト脱退。
◎内海談

「この頃迄はホンマのんびりしてて、誰かがグイグイ引っぱっていく感じでもなかったし……。ケイトっていう人は衣装とかにすごい興味がある人で、“これ着たら”とか色々服を探してくれたりした。そのケイトに、ヒデちゃんが必死でベースラインを教えてる姿は今でもよく憶えてるわ。この頃(ベース交替)から音楽的に全員がやりたいことがハッキリしてきて、私は以前あまり聴かへんかったパンクなんかも意識し始めたりして、自分なりに新しい世界って感じがあったな」

◎伊丹談

「私は京都の、ある種学生ノリのブルース・シーンも好きやってんけど、なんか“安心”はあるけど“前進”はないっていう気がしてきてて…大阪のパンク・シーンはすごく刺激的に見えたし、話の合う奴も多いちゃうかなってね。でもメンバーの中には“パンクって何ですか?”(笑)乗りの人もいて、“私だけの好みであれこれ言うてもなぁ、でもなぁ”みたいなジレンマがあったわ。リリーとケイトが抜けてからは案外すんなりやれることとやりたいことがライヴの面では一致したように思うな」

■1987.7.17 京都磔磔
◎内海談

「この日初めて、ライヴが気持ちええって感じたんや。それ迄は何かとリズム隊の影が薄くて、ギターの“ドローン”とした感じに頼ってしまいがちやってんけど、ベースが替って音の足元がしっかりして、初めて安心して唄えてんね。この頃から(それ迄ほとんどなかった)コーラスの占める割合も多くなったんとちゃうかな」

■1987.7.31 自主制作で発売。
◎伊丹談

「ニューエストから自主盤(インディーズ)を扱ってるレコード屋さんのリストを教えてもらって、せっせと“レコード屋さん巡り”を始めてんや。“フジヤマ”(三軒茶屋のレコード屋さん)から“すごく気に入りました。もっと送って下さい、応援しますよ”みたいな内容の電話貰った時はホンマ嬉しかったわ。ツアー中、車でソノシートを持っていく訳やから--クーラーなんか当然ないしね--3分の1ぐらいがぐにゃぐにゃに曲がってしもて、太い辞典とかで必死に伸ばしたりしたんを覚えてるわ。なんせ、太い本という本全部使ってやったから、今でも久しぶりに広げた本からいきなりソノシートが出てきたりすんねん(笑)」

■1987.8.15 渋谷ラ・ママ
◎中川談

「共演バンドの中に、原爆オナニーズもいてんけど、ホンマに衝撃的やった。その頃にはニューエストのサウンドも随分パンクっぽくなってきててんけど、原爆オナニーズ見てからはますます曲のテンポは上がっていったな(笑)。その頃の俺のお気に入りといえば、メスカリンに、原爆オナニーズ、ラウドマシーン、オフマスク00ってな具合で、家ではソウルと60年代のB級サイケばっかり聴いてた(笑)」

■1987.8.26 目黒ライブステーション
◎奥野談

「運転手としてツアーに同行したんやけど、途中東名の終わりの辺で車がブッ潰れてもうて、夏の暑いさなか、みんなで車を押したりしたな。メスカリンは普段から派手な格好してたから、パーキングで車押してる姿ときたら、それは異様な光景やったで」

■1987.8.30 大阪中之島野外音楽堂(パンク・イベント)
◎ベン談

「今でこそ、月9本なんてたいしたことないねんけど、この頃は俺一人就職してたからなぁ(あとのメンバーはバイト)。(仕事場の)上司に呼び出されたりして大変やったけど、結局クビにはならんかったわ」

◎中川談

「整合性のないブッキングの取り方やねぇ(笑)。全部、移動は4人乗りのバンやってんで」

■1987.10.28〜29 3曲をレコーディング。
◎中川談

「〈イッツ・ユー〉の鎌ちゃん(その頃のベース)と2人でやったバック・コーラスなんて、まさに“適当”の極地やね。なんであれでOKが出るんや(笑)」

■1987.11上旬 ファーストアルバムのレコーディング
◎中川談

「この時に初めて本格的なレコーディングっちゅうもんをやったんやね。とは言っても、今と比べたらごく初歩的なやり方やってんけど。スタジオも、バルコニー・レコードのバンド(じゃがたらやD-DAY)がよく使ってた渋谷の「なかよしスタジオ」(今はない)を使って、「ダビング」とか「コーラス」なんかもちゃんとやり始めたんや(笑)。当時、この6曲の仕上がりには結構みんな満足できて、レコーディングにも徐々に興味が出始めるんやね。今でも〈スティファン・アップ〉とか〈ソウル・トゥ・ソウル〉のバージョンを聴くのは好きやね」

■1987.11.3 東京・駒沢大学学園祭。
◎伊丹談

「学祭ってこともあって(ライヴの)持ち時間は短かかったんやけど、待ち時間の方は腐るほどあって、その時暇に任せて楽屋で作った曲が〈アイ・ドント・ライク〉やったりするんやな。この頃のニューエストは「波に乗り乗り」っていう感じで、演奏にもすごい勢いがあったわ。曲調もどんどんスピードアップしていって、1曲があっという間に終わるんや」

■1987.12.1 この日、名曲〈ノー・ノー・ガール〉初登場。
◎内海談

「この頃から急に固定客が増えたように思うなぁ。この日出てた他のバンドも当時人気あるバンドやったし、私ら“トリ”で、“(お客さん)みんな帰ってまうんちゃうか”っ思ってたら、一番客のノリが良くてビックリしたんを憶えてるわ」

■1987.12中旬 新ベーシストに浅野フジコ加入。
◎伊丹談

「フジコちゃんはほとんどベース初心者やったけど、(演奏が)出来へんかっても、やたら堂々としてる所がこの時のメンバー4人の共通してる点やったと思うわ」

■1987.12.31 ニューエスト主宰の年越しイベント。
◎河村談

「ライヴの後、どういう経過でか、ニューエストとメスカリンの集団が俺のアパートに押しかけてきたんや。6畳の部屋で足の踏み場はないし、こたつの中はこれ以上入られへんくらい足であふれたわ。横にあったベッドの上では、中川が思いついたベースラインを高原と俺と3人であーだこーだやってんけど、実はそのベースラインが後に〈エンプティ・ノーション〉になったんやな。次の日(元旦)、みんなが帰った後の散らかり様と虚無感は忘れられへんな」

■1988.1.15 初のワンマン・ライブ。
[演奏曲目]

  • ソウル・ダイナマイト
  • オモチャの兵隊
  • 爆弾じかけ
  • ニュークリア・レース・オア・ヒューマン・レース
  • グルーヴィー・スタンド
  • センスレス・チャター・センスレス・フィスツ
  • オーヴァー・スロー(奥野Vo)
  • フィーリン・ファッキン・アラウンド
  • ウォーク・オン・バイ(ディオンヌ・ワーウィック)
  • プリティー・ピクチャー・ブック
  • エンプティ・ノーション
  • スティファン・アップ
  • サイコ・セラピー(ラモーンズ)
  • ルック・アウト
  • サムバディズ・ウォッチング・ユー(スライ&ザ・ファミリー・ストーン)
  • ニュー・ファンデーション
  • トゥデイ・ユア・ラヴ(ラモーンズ/奥野Vo)
  • スケープ・ゴート
  • ソウル・トゥ・ソウル
  • ロックンロール・レイディオ(ラモーンズ)
  • ドゥ・ユー・ウォナ・ダンス?(ボビー・フリーマン)

◎ベン談

「ワンマンやから曲数も多いし、時間も倍以上になるし、本番直前は緊張して気分が悪くなるほどやった」

■1988.1.17 名古屋ハックフィン
◎内海談

「この日は大変やった。まず友達に借りたバンが吹田インターの入口で故障して、次にまた、違う友達に借りた廃車同然のバンも名古屋寸前、高速の上で故障して、苦労に苦労を重ねてハックフィンに着いたんは晩の10時や。結局、お客も文句を言いつつも待っててくれて、そのまま着替えもせずにライブをやったんや」

◎中川談

「エンジンを冷やすのに水が必要やったんや。高速から柵を越えて水を探しに行くんやけど、またちょうど周りに何もないところでねぇ。ライブの時間になるわ、寒いわ、水はないわで、もう最悪や(笑)」

■1988.3.13 ラウド・モデル。
「フジヤマ・ガンガンファイト」に「ラウド・モデル」急遽出演。メンバーはラウド・マシーンの3人に、ギターで中川参加。
■1988.4.29 中川&丸橋(ガーデン)企画で広瀬隆講演会&ライブ。
◎中川談

「四国の伊方原発で出力調整実験があるっていうことで、(ラウド・マシーンの西村、メスカリンの伊丹と3人で)高松の四国電力のデモに参加したりしてたのは、この頃や。「反原発ブーム」なんて軽いキャッチコピーがあったけど、「ブーム」にしたいのは、あくまでも体制から要請を受けたメディアで、「運動をつぶしたい側」の意向の反映やった訳や。「原発をなくそう」とか「ダム反対! 自然保護を」っていうことは、「殺しはよくない」っていうのと同じで、最低限の倫理観の話やと思う。自然を殺すことであろうが、人を殺すことであろうが、いつも正当化して儲けてる寄生虫みたいな連中がおるってことは肝に銘じとかな」

■1988.4下旬 新ベーシストに鈴木友之参加。
◎中川談

「オーディションで何人かセッションしてんけど、もうどいつもこいつも話になってへんでねぇ(笑)。アルバムのレコーディングは決まるわ、ライブは多いわで、だいぶあせってたんや。で、偶然鈴木がバンドを抜けたってことを連れ(友達)から聞いてね。電話したら2つ返事でOKやった訳や。前々から好印象をお互い持ってたみたいで、演奏力なんか全然後回しで即決まったようなもんや(笑)。初めのうちはライブもひどかったみたいやで」

■1988.5.5 アルバム用フォト・セッション
◎伊丹談

「この時撮った写真は今でも凄く気に入ってんねん。確かニューエストが西部講堂でライヴやってて、それを観るついでに京大の近所で撮影したんやね。凄く天気が良くて、私が狙ってた通りハレーション気味の写真が撮れたんや。京大の中に車を止めて、車中で着替えてそのまま校内をウロウロしてたから、クラブしてる学生が不審な顔して見てたんを憶えてるわ」

■1988.5.8 京都CBGB
◎奥野談

「妙にステージが狭くて、俺一人、ほとんど客席の位置でキーボード弾かされたんや。あまりの狭さにドラムの椅子が(後ろの溝に)落ちて、ベンは立って叩いとった(笑)。この時の対バン、オフマスク00のリズム隊には目を見張るもんがあって、その後暫くオフマスクの影響でニューヨーク・パンクばっかり聴いてたな。そうそう、オフマスクに呼ばれて、イギーの曲かなんかで中川が飛び入りしてんけど、マイクの数が足りなくて、なんかステージをウロウロしとったな(笑)」

■1988.5.17〜20 『ディープ・モーニング・グロウ』レコーディング。
◎中川談

「このレコーディングは殆んどヒデ坊一人でやったようなもんやった。リズム隊の二人はリズム録りが終わったら“お買いものに行ってくるぅ”って言うて消えてまうし、洋子ちゃんもまだ学生で、確か俺と洋子ちゃんはレコーディング3日目にスタジオ入りしたんや。そしたら、ヒデ坊一人で奮闘してた訳」

◎伊丹談

「私はこのレコーディングで初めて、バンドに於けるリーダーのつらさを知った(笑)」

■1988.5.30 共演はボ・ガンボス
◎中川談

「ボ・ガンボスは強烈やった。俺にとってボ・ガンボスとメスカリンは“カッコイイ”の定義の両極にあったな」

◎伊丹談

「今でこそボ・ガンボスとは仲間意識があるけど、あの時は芝浦インクって場所と相まって、場違いな所に来てしもた、みたいな感じがあったわ。その頃の私らの客は断然パンクっぽい子が多かったから、私らのライヴになったら客がガラっと入れ変わったんを覚えてるわ」

■1988.6.26 京都どんぞこハウス。
◎太郎談

「ニューエストをちゃんと観たのはこの日が最初やね。「曲間なし、ブッチギリ、パワー全開」っていう感じのライブで、とにかく強力やったで。ライブ前に横の公園でみんなで野球やったにもかかわらず、や。その体力に圧倒されたなぁ。それからは京都でライヴある度に観に行った。メスカリンのおふた方に会ったのも、この日が最初」

■1988.7.24 目黒ライブ・ステーション。
◎太郎談

「たまたま東京に行ってて、このライヴは見てんねん。例のごとく怒濤のようなライブを演った後、次の日仕事があるベンはすぐに車を運転して、朝大阪に着いたらそのまま仕事に行きよった。鈴木は“途中で運転代わったるわ”とか言いながら、ずーっと寝とった(笑)」

#中川と奥野は『プリティ・ラジエーション』レコーディング仕上げのため、東京に残った。

■1988.7.24 インディーズのベストセラーに。
◎伊丹談

「出来上がったレコードを見た時にはホンマ嬉しかったわ。ホンモノのLPサイズやもんな。雑誌のディスク・レヴューでも評判良くて、この頃からライヴ・レポートなんかも出始めたりしてんけど、なんか(注目されているっていう)実感が湧かへんかったな」

■1988.8.27 ニューエスト、メスカリン、一緒に
◎内海談

「88年あたりから良く一緒にツアーするようになるんやけど、なんせロクな機材を持ってなくて、すぐ何かのトラブルが起きるんやね。そういう時は必ずニューエストのメンバーが対処して、メスカリンのメンバーは“大変や、大変や”って口だけ騒がしかったんちゃうかな(笑)。泊まる所に困ったら、数少ない連れ(友達)の家にみんなで押し寄せたりしてね(ラウド・マシーンのメンバーやグルーヴァーズの藤井の家等)。車の中にもよく泊まったな。随分無茶なツアーを沢山したけど、何があってもライブではシャキッと疲れを見せずに演ってたニューエストには、ほれぼれするもんがあった」

■1988.9.15 インディーズ・チャート1位を独占する。
◎中川談

「東京と大阪で結構売れてね。とにかく勢いがあった。インディーズ・チャートのトップに踊り出たりして、ますます作品のできが気になってくる訳や。音楽誌のアルバム評価も抜群でねぇ。そうそう、『ロッキング・オン』の山崎も、このアルバムのディスク・レビューで知ることになんねん。「ジェットコースター・パンク」やて(笑)。作品に不満が多かっただけに、高評価は気にかかった」

■1988.9.15 大阪エッグ・プラント。
[15日の演奏曲目]

  • タッチ・ミー(ドアーズ)
  • オモチャの兵隊
  • ルック・アウト
  • プリティ・ピクチャー・ブック
  • ティアーズ・オブ・ア・クラウン(ミラクルズ)
  • 爆弾じかけ
  • グルーヴィー・スタンド
  • ラジエーション
  • ソーシャル・サーヴィス
  • カラフル・プロムナード
  • ディア・プルーデンス(ビートルズ)
  • クラッキン・アップ(ボ・ディドリー)
  • ヒッチ・ハイク(マービン・ゲイ)
  • オーヴァー・スロー
  • 素敵な話
  • ソウル・ダイナマイト
  • 青春の翳り
  • 雲の下
  • エンプティ・ノーション
  • 20thセンチュリー・ボーイ(T.レックス
  • スティファン・アップ
  • ニュークリア・レース・オア・ヒューマン・レース
  • フィーリン・ファッキン・アラウンド
  • トゥデイ・ユア・ラヴ(ラモーンズ)
  • ニュー・ファンデーション
  • スケーブ・ゴート
  • センスレス・チャター・センスレス・フィスツ
  • ソウル・トゥ・ソウル
  • クエスチョン・クエスチョン

◎中川談

「この日(15日)の客の入りはすごかったなぁ。狭いハコに300人以上詰め込んで、パンク・ナンバー30曲やからねぇ(笑)。インディーズやからメディア戦略なんか何もなかった訳で、地道なビラ貼りが効を奏したええ例やね。何か1つの達成感があったな」

■1988.10.10 初のワンマン・ライヴ。
〈演奏曲目〉

  • テル・ミー
  • クライ
  • イッツ・ユー
  • オー! ボーイ
  • コカイン・ベイビー
  • アイ・ドント・ライク
  • アス・ホール
  • ノー・ノー・ガール
  • ビッグ・ブレイク
  • ブルー
  • ジミ・ジミ
  • アブソルートリィ・スウィート・マリー(ボブ・ディラン)
  • ハウス・パーティ(J.ガイルズ・バンド)
  • アスク・ジ・エンジェルス(パティ・スミス)
  • シェイク(サム・クック)
  • タイム・マシンにお願い(サディスティック・ミカ・バンド/英子ヴォーカル)
  • ロックン・ロール・ニガー(パティ・スミス)
  • スプリング・セール

◎内海談

「この日が、私がステージでギターを弾いた初めての日や。歌う時は前へ前へ出る訳やけど、ギター持つと何か後ろへ後ろへ体が引けてまうねん(笑)」

■1988.10.30 反原発イベント。
◎中川談

「この時ゲストでアレン・ギンズバーグ(*1)が来日してて、ステージの裏で向こうから握手を求めてきてね。はっきり言って有頂天になった(笑)。ギンズバーグの詩の朗読もすごい良かった」

(*1) 詩人。ビートニク(ビート・ジェネレーション)を代表する。「月に吠える」など。

■1988.11.15 大阪ミューズ・ホール
◎ベン談

「太郎ちゃんの最初のライヴがこの日やってんけど、フロントの“派手女”三人の後方約2mの所でドラムを叩いてる姿は、えらい小さく見えた(笑)」

◎太郎談

「ガチガチに緊張してて何が何やら分からんうちにライヴが終わってしもたっていう感じやったな。後でテープ聴いたら全編速いのなんのって……ホンマ、冷汗もんやったで」

■1988.11.18 結局ライブはウィラード終演後に3曲しかできなかった。
◎中川談

「24時間かけてやっと着いたにもかかわらずや。結局、ウィラード次第やってんけどな。NOが出た訳や。ホンマ腹立つ」

■1988.11.22 ライヴ出番30分前に来られない
◎ベン談

「メスカリンのメンバーは何事もなかったかのようにライヴを演ってて、さすがメンバー・チェンジを繰り返してきたバンドは強いと思った」

■1988.12.16 大阪エッグ・プラント
◎永野談

「この時初めてニューエストを見てんね。対バンはグルヴァーズやったと思う。弾丸みたいなサウンドと中川の目ン玉が強烈で“これがパンクっていうやつか”って思ったわ(笑)」

■1988.12.22 東京・豊島公会堂で行う。
◎奥野談

「学祭とかを除いて、ホール級のライブはこの時が初めてで、あの広さでどうやったら自分が大きく見えるかってことを一番考えたかな。結局、いつもよりしっかり髪の毛を立たせるっていうことになった訳や(笑)。この時に大きい所でライブをやる気持ち良さを知って、“よっしゃ、このままホール展開や”って自分の中で盛り上がってんけど、この後はまたライヴハウス・ツアーをこなしていくんやね。中川とか、ホンマにホールが嫌いみたいやね」