EP.「 日曜日のミツバチを」を作ったことによって、b-f の周辺は にわかに騒がしくなり始めていました。僕達はアルバムを作りたくなって、毎日 仕事の後、スタジオに集まって 録音を始めました。しかし、ここで ひとつ大きな問題が起こりました。Dr の橋本君が 仕事の都合で、音楽活動に時間を割くのが 事実上不可能になってしまったのです。彼は 無理矢理 時間を作り出して、何曲かドラムを録音し、バンドを去りました。
 それでも 僕達は レコーディングを続けました。ただ、まだ何曲か ドラムのパートが残っていたし、今後 活動して行くのにも b-f は 代わりのドラマーを探す必要がありました。友人の 渡辺(現 the elements) に それとなく相談すると、「そら、やっぱり岡部がベストやで!」という答え。大学時代、渡辺、岡部、八野は同じバンドで活動していたのです。渡辺の言う通り 僕も 岡部がベストだとは思いました。でも彼は 当時 おかげ様ブラザーズ という プロのバンドのドラマー。b-f などという 海のものとも 山のものともわからんバンドを 手伝ってくれるやろか・・・。
 音源を(前作の ep )を送って 何日か後、ベーロと会いました。「CD どうやった?」と訊ねると、
「なんか 軟弱な感じやった(この正直者!)けど、今は いろんな音楽に触れたいから やってみたいな」ということで、現在の b-f の屋台骨をささえることになる 男 オカベーロの参加が 決まったのです。

 さて 今回、久しぶりに このアルバムを聴いてみて、こんな事を言うのは 良くないとは思うけど、
『出来が悪い』の一言です。僕を含め、メンバーみんなの必死さが 微熱を越えて 39℃の高熱を発しています。また、 ep.「日曜日のミツバチ」の時には 武器でもあった ヘタさ や 未熟さ が ここでは ところどころ 悪い形で さらけ出されています。楽曲としては、何曲か とても好きな曲もあるけど、音楽として 今 聴くのは かなりつらい。でも、これも b-f が歩んで来た道のひとつです。興味を持った人は、なんとかして手に入れて 聴いてみて下さい。



 

 1.ペニーアーケードの年

 確かに ディズニーランドは楽しい。ゴミひとつ落ちていない 完璧に管理された 夢の国。誰もが 同じ事を 同じように楽しいと思える 幸せな瞬間。でも それとは全く違う種類の遊園地があることを 僕は知ってる。

 薄暗い ビニール屋根の下、塗料のはがれかけた パチンコ台 や スマートボール台。かなり狭く、不衛生なスペースに 閉じ込められた とてもありふれた動物達。
観覧車は ギシギシと音をたてて回り、6つ あるティーカップは 週末だというのに、自分達しか乗っていない。楽しみにして来たのだけれど、なんか少しずつ 楽しいと言うよりも ジメっとした気持ちになってくる。
それは 夏休みが あと一週間足らずで終わろうとしているからかもしれないし(学校は嫌いだ)、急な仕事で 父さんが 一緒に来れなかった(日が昇る前に、ゴルフ・バッグとともに出て行った)からかもしれない。
 「雨 降っても行くって言うたやんか!」 そう、約束は約束だ。「今日は 市民プールにしといたら?」という母さんを 強引に説得して(泣く事によって、自らの正当性を主張した)やって来た遊園地に 以前 来た時の 華やいだ雰囲気はなかった。というか、あの時も そんなに楽しくは なかったような・・・。わずか 1 〜 2 年のあいだに、僕は自分の中で 勝手に楽しげな思い出を作り上げただけなのかもしれない などと思いながら ソーダ味の アイス・キャンディーを食べる。

 暑さのせいで、ベビー・カーの中 弟が ぐずり続ける。母さんは「ひとりで乗ってきなさい。」と言う。真っ黒に日焼けした 少し怖そうな おじさんに券を渡すと、僕を木馬に かかえあげてくれる。
午後 2 時の光と影の中、僕ひとりを乗せたメリーゴーランドは ゆっくりと回りはじめる。



 その日、38度の熱を出して会社を休んだ(会社は嫌いだ)僕の ぼんやりとした頭に浮かんだのは
スティーヴン・ミルハウザーの小説『In The Penny Arcade』を 高度成長期 日本版に 書き直したかのような こんな光景でした。確か、その日のうちに 曲になったような覚えがあります。



 
2. Knock! Knock! Knock!

 今日は、『4 日目の転校生』の話。
僕の話をすると 暗くなるので、僕が高松に住んでた 中学 3年生のとき、東京から転向してきた 林君の お話。

 その転校生が やってくる日、教室は朝から なにか いつもと違う 落ち着かない空気でした。
「男?女?」「男やって。東京から らしいで。」「うわっ、東京!?すごいのー。」
なにがすごいのか わからないけど、僕達は 東京の人 というだけで、意味もなく わくわくするような気持ちでした。どんな奴が来るんだろうという みんなの想像が 頂点に達しようとした時、教室のドアが開いて 先生に連れられた林君が入って来ました。そのルックスは 70年代末の四国に住む中3が想像する「東京の中学生」の最大公約数的 要素を 見事に全て兼ね備えたものでした。色白で ヒョロっとした やや長身、銀ぶちのメガネ(銀ぶちさえ、当時の僕らには 珍しかった)に、髪は長く パーマがかかっている(もちろん 僕らは短髪 耳全出し)。しかも、緊張のせいか 眉間には 神経質そうなシワが・・・。まさに、絵に書いたようなガリ勉タイプ(死語)。
「はじめまして、東京の世田谷から来ました 林 達夫 です。」
「ひょ、標準語や !!」「頭 良さそー」
先生は 林君に「毛、切ってこんとあかんのう。ここは みんなカリアゲやけん。そしたら林は八野のとなりや。」 林君は まっさらの つめ襟の制服で 颯爽と僕の隣の席に着きました。

 見た目というのは 恐ろしいもので、彼が教室に入った瞬間から クラスのみんなの頭には、「林君は東大を目指している秀才である」というイメージが 周知の事実としてインプットされました。転校生という物珍しさも手伝ってか、初日の昼休みには もう 林君に数学の問題を教えてもらいに来る奴まで居ました(作り話ではなく、ホントに)。ただ、何日か 林君の隣で 教科書を見せてあげたり、ちょっとした会話をするようになると、彼が ただのガリ勉ではなくて、とても優しくて 人なつっこい笑顔を僕に向けてくれることに気付きました。無口な僕に いろいろ話しかけてくれたり(どっちが転校生やねん!?)また、体育の時間には クラスで 1,2の俊足を披露してくれたり(スポ−ツ万能)しました。明るい性格も相まって、彼は 短期間のうちに すっかりクラスの人気者に 昇りつめていきました。  そして、中間テストも終わった ある社会科の時間、みんなが彼を 真のクラスメイトとして認めるきっかけとなる、衝撃的な出来事が 起こります。

 「んじゃあ テスト返すぞ。まず、50 点以下のもんは 床に放るから取りに来い。」(今は どうか知らないけど、その頃は こんな事が 当たり前のように行われていた)「ほれ、太田 42 点、島本 47 点、もういっちょ、林 38 点・・・」えっ?ハヤシ・・?クラスの男子も 女子も 一瞬 息をのみました。えっ? 林君が 38 点・・・? 林君は 気の毒なくらい 恥ずかしそうに、床に落ちた答案を拾い上げて 黙って席に戻りました。
 国語も 数学も 英語も 林君の点数は あまりかんばしいものでは ありませんでした(というか、ひどかった)。でも、誰も 林君に失望する人は いませんでした。「なんや、東京から来て、標準語しゃべって、パーマかけとっても(のちに、天然パーマだということが判明)俺らと あんまり変わらんやん。」という 不思議な 仲間意識のようなものが、より強まっただけでした。

 self review というよりも、ちょっといい話 でした。


 3. Graceland

 う〜ん。この音源は 歌も演奏も かなりキツイな・・・。
まあ、気を取り直して レヴュー、レヴュー。

 この曲は、よくライブで演ったな。
僕達は、88年頃から 京都の銀閣寺にあった CBGB というライブハウスを中心に ライブを演っていました。中心にというほど 数はしてないけど、それでも 2ヶ月に 1回は やってたと思います。まだ、なかなか 音楽的に相性のいい対バンがいなくて、ライブハウス側が組んでくれるバンドは たいてい、さわやかな、さわやかな、さわやかな、さわやかな、さわやかな シティー・ポップ(絶滅語)か、あるいは、なんでか知らんけど 退廃した ニューウェーブ崩れの 気色悪い奴らでした(毒舌全開)。
もともと社交的ではない b-f のメンバーが そんな奴らと 仲良くなれるわけもなく、僕達は どこからも 完全に孤立していました。お客さんの入りは、多くて 20 〜 30 人 というところでしょうか。

 ライブは いつも 淡々と進行しました。特に この Graceland のような スローで おとなしめの曲は、演奏が終わっても お客さんの反応が パッとしないので、気の弱い僕としては まるで、ギャグがすべった 新人お笑い芸人のような心境になるのでした。お客さんが 聴き入ってくれているのか、だるくてシラケているのかが さっぱりわからないのです(これは今でも・・・)。人前に立つ事の苦手なボーカリストの僕としては、こんな苦痛を味わいながらも、いまだにライブをやろうと思うなんて、よほど僕は 音楽が好きなんだなと 逆に 感心したりもします。

 この曲は、「エスケイプ、それも37回目の」と同じ頃に作ったと思います。曲調は違うけど なんとなくテーマのようなものが 似ている気がします。サリンジャーはホールデンに 小説の中で『だれもぼくを知らず、ぼくのほうでも だれをも知らないところで、口もきけない、耳も聞こえないふりをして、だれとも無益な馬鹿らしい会話をしなくてすみ、稼いだ金で 森のすぐ近くに小屋を建てて そこで死ぬまで暮らす』と 言わせていますが、僕の曲の『Quiet Life』には『君』が登場します。


 4. 僕のせいじゃない

 鈴木・八野の共作曲が この曲を含めて アルバムに3 曲入っています。
鈴木君との共作は、まず 彼が だいたいのコード進行とギター・カッティングを持って来て、それに 僕がメロディーをつけるというパターンが主です。
今でこそ b-f の作曲やアレンジ方法は いろんなパターンがありますが、この頃は たいてい、ラフなコード進行と メロディーが在って、それをスタジオで みんなで あーだ こーだと言って、音を出しながら作り上げていくという手法でした。バンドを やったことのある人は わかると思いますが、この手法は ジャンルが はっきりしていると( ex. ブルースやヘヴィー・メタルなど)簡単に 形になるのですが、僕らのような あいまいなバンドの場合、「なかなかいい感じ」とか、「ちょっとイマイチやな」とかが 全ての判断基準になってくるので、けっこう大変でした。もちろん、演奏技術の問題もからんでくるので、やたら 没になる曲が多かったです(たぶん7割強)。

 スタジオ練習は みんなの仕事が終わってからの 夜 11:00 〜 1:00 か、10:00 〜 2:00 で、その後 メンバーの部屋に集まって 夜中の4 時近くまで ミーティングと称して うだうだと 話をしたりして過ごしてました。つまり、就寝は AM.5 時。そしてまた みんな 朝 7 時過ぎには起きて 仕事に行くのです。週に 1 回とはいえ、今から思うと よくもまあ、あんな体力が あったものです。

 この「僕のせいじゃない」は、確か レコーディングで初めてオカベーロがドラムをたたいた曲だったと思います。とてもシンプルな曲とアレンジなので、ほとんど一発録り(楽器をオーバーダビングしていくのではなく、せーの でみんな一緒に演奏する)でした。歌詞を 後に 外間さん(プロデューサー)が気に入ってくれて、『クローバー・クロニクルズ 1 』という ミニ・アルバムの候補の一曲に あがったのですが、なぜか 『クローバー・クロニクルズ 2 』に入れようと 話がまとまって、そのままに・・・。(ハハハ)
 この詞に出てくる『ブローティガン』とは、アメリカの詩人 リチャード・ブローティガン のことで、僕の大好きな詩人です。僕は 日本の詩人は 99%ダメというか、受け付けないというか、気持ち悪いというか、うさん臭いというか、ジメジメしてるというか(もうエエワ!)そんな感じなのですが、外国の詩人は(訳者のおかげもありますが)けっこう好きな人もいます。ただ、ロック界(なんじゃ そりゃ!?)で人気の ビート詩人(アレン・ギンズバーグ や ウィリアム・バロウズ etc.)は、 ハードボイルドな言葉遊びっぽくて 好きじゃありません。
 ブローティガンは 俳句に影響をうけたこともあってか、独特の軽さと 不思議な深みがあって、それまでの僕の「詩」というものに対してのイメージを くつがえしてくれた人でした。自殺しちゃったけど・・・。


 5. Dear, 1984年の僕

持論 その1

 人のものの考え方や 世界の見方は、ひとたび 固まると そう簡単に変わるものではない
だから僕は「暴走族は今日で卒業。明日からは 生まれ変わって マトモな社会人になるぜ!」 ( かなり ベタな例だが・・・)なんて奴は 基本的に信用しない。そんな奴は「常識者の薄皮をまとった どうしようもないオヤジ(オバハン)」にしかならない。もし 仮に、マトモな社会生活をおくれる人間になれたとしたら、それは ただ そいつが「元来、暴走族になんか向いていない 小心者のハッタリ野郎」だっただけのこと。

 これは なにも 僕が年令を重ねて 大人になったから思う事ではなくて、10代の前半に 周りのヤンキーをみながら よく考えていた事(イヤなガキ!!)。

 まあ この例を見るまでもなく、僕は 小さい頃から かなり偏った考え(その時は 偏ってるなんて思ってなかった)を抱きがちな子で「学校イヤやし 火事になったらええのに」とか(小2 の時、本当に火事になった。もちろん、僕のせいじゃない。)、狭い道を スピード出し過ぎの車が通ると、「僕は死んでもいいから、この車に轢かれて コイツ(車の運転者)の一生ボロボロにしたろか!」とか(我ながら なぜか交通違反系に厳しいな・・・)、しょっちゅう思ってました。
遺伝子情報だけでなく、このような 自分の周囲の環境に対する 色々な小さな小さな反応の積み重ねが、「僕」という人の ものの考え方や 世界の見方の『核』を形成していったのです。
そして、それが ほぼ固まったのは 21 〜 22 歳の頃でしょうか。少々の環境の変化や出来事では 決して揺らぐ事のない『核』。
ただ、その『核』を 無防備に 裸で世間の風にさらしていては、すぐに傷だらけになって、とてもじゃないけど 生きてゆけません。無意識に、また 意識的に 何枚もの布でくるんだり、コンクリートでおおったり、装飾を施して カモフラージュしたりして 何とか おり合いをつけているのです。
でも、時々 僕は その余計な『布』だの、『飾り』だのを剥ぎ取って 『核』そのものを確かめてみたくなります。「まだ そこに本当にあるのだろうか?」「 もしかして 全く別のものへ変質しているのではないだろうか?」(こんなこと考えるの 僕だけだろうか?)

 このアルバムが出て、いろんな人の いろんな感想を聞いたけど、妹には「兄ちゃん だいぶ頭 オカシイわ。」の一言で片付けられてしまいました(ちょっと傷心)。この頃の雑誌等のインタヴューでは、「日英同時進行」だの、「なんで英詩じゃないんだ?」だの、「ネオアコの未来は?」だの、ほんと さっぱり訳のわからん 的外れなことばっかり言われて かなり頭にきまくりました。今から考えると、もしかして 妹が一番 核心をついてたのかもしれません。


6. プロテスト・ソング

protest

1. 言い張る、断言する
2. 抗議する、異義を申し立てる
3. 草野球界の強者や、ロッテを解雇された選手達を一同に集めて 毎年 11 月頃、鳴尾浜   球場で 行われる 阪神タイガース入団の為の ちょっとした催し
                            <新ポケット英和辞典>

 ここで取り上げるのは 2 の「異義を申し立てる」です(3 も実に捨てがたいが・・・)。

 社会に対する 異義申し立てには いろいろな方法があって、民主主義のもと、選挙で一票を投じて・・という間接的なものから、同じ考えを持つ者が集まってのデモ行進や座り込み、自分達とは異なった思想の持ち主の排除を目的とした 政治 あるいは宗教集団によるテロ行為まで、さまざまです。
そして、そのさまざまな方法の一つに POP SONG が擧げられます。
 1960年代、初めて POP SONG に社会的メッセージを持ち込んだのは(つまりは、初めてプロテスト・ソングと呼ばれる曲をつくったのは)ボブ・ディランだといわれています。

何度 見上げたら青い空が見えるのか?
いくつの耳をつけたら為政者は 民衆の叫びが きこえるのか?
何人死んだら わかるのか あまりにも死にすぎたと
その答は、友だちよ、風に舞っている

Blowin' in the Wind / Bob Dylan 

国中のおとうさん おかあさんよ
わからないことは批評しなさんな
むすこやむすめたちは あんたの手には おえないんだ
むかしのやりかたは 急速に消えつつある
あたらしいものを じゃましないで欲しい
たすけることができなくてもいい
とにかく 時代は変わりつつあるんだから

The Time They Are A-Changin' / Bob Dylan

(片桐ユズル:訳)

 異義申し立ての歌というのは、うっとーしいものが ほとんどです。わかりきった事を いちいち言葉にされて、説教のように 上の立場から 浪々と(しかも、オマエには言われたくないわ!というような奴に わかったような顔をして)歌われてしまった日には、うざったい の一言です。
ただ、ほんの一握りの優れた歌だけは その特異な「うざったさ」ゆえに 時代を超越して パワーを持ち続けることがあります。

 今 現在(2001/9/26)、ジョン・レノンの『イマジン』が、アメリカでは 放送自粛になっているそうです。

天国なんかないと 思ってごらん その気になれば たやすいこと
ぼくたちの足元に地獄はなく 頭上にあるのは空だけ
みんなが 今日のために生きていると 思ってごらん

国なんかないと 思ってごらん 難しいことじゃない
殺し合いの もともなくなり 宗教もなくなり
みんなが 平和な人生を送っていると 思ってごらん

Imagine / John Lennon (今野雄二:訳)

「国なんか〜、宗教も〜」のくだりが、今 まさに、戦争へ向かおうとしているアメリカの人達にとっては 強烈な「異義申し立て」の歌として響いてしまうのでしょう。一人の夢想家= dreamer の理想主義の美しいバラードが、うっとうしくて、きれいごとで、神経を逆撫でする歌として・・・。(もしかして、こんな事態になった時にこそ 光を放つようにと ジョン・レノンは想像しながら作ったのかもしれない などと、理由もなく 今 ふと思った。)

 僕は、戦争なんてものは 軍国主義(戦前の日本のような体質)がないかぎり、そうは おこらないものだと思ってました。世界中の人々の ほとんどは 平和を願っているし、実際、アメリカも あのテロ事件までは、戦争という行為自体を肯定する国民が 多数を占めることになるなんて 考えられなかったはずです。
 最近のアメリカからのニュースを見て、僕は 小説『少年 H 』を思い出しました。第二次大戦に向かおうとしている日本を 少年の目から描いた 妹尾 河童 さんの大ベストセラーです。その小説には 近所に住む 英米人やキリスト教徒を 敵国の人間(宗教)だからという理由だけで迫害したり、本当は 戦争になど行きたくないはずなのに(そのことに気付いてない者も含めて)、何か大きな空気のかたまりに包み込まれるように 戦いへと志願してしまう若者たちの姿が描かれています。それと全く同じような光景が 60年後のアメリカで 今、繰り広げられているのです。(時代は変わらない)
 確かに 僕は もし、自分にとって とても大切な人を 誰かに殺されたりしたら、間違いなく そいつをこの手で殺してやりたいと 強く思うでしょう。でも、それの発展形として、国家単位での戦争となると、なんか どうしても違和感を感じずにはいられません。


 今日は書いてるうちに ちょっとテーマが大きくなりすぎたようです。あー、今回は軽く始まったつもりだったのに 最後はやっぱり heavy になってしまった。今後は もう少し「楽しい読み物」を心掛けます(反省)。
 b-flower の Protest Song は、気付かないかもしれないけど いろんなバリエーションで多数あると思います。ただ、そのものズバリのタイトルの本曲『プロテスト・ソング』には 歌詞が ない!


 8.でも それはこわれやすい

 初期の b-f には The Smiths っぽい曲が結構あります。この曲も そうでしょう。
今でこそ、冷静に こう言ってますが、その頃は 確かに スミスは大好きなものの、他にも好きなバンドが たくさんあったし、実際それほど曲調や歌い方が近いという認識は ありませんでした。
 最初の EP のレヴューでも書いた通り、僕達は バンドとして 曲作りもアレンジも まだ かなり初歩段階にあって、オリジナリティーどころか、自分達が いったい何をやっているのかも よくわからない状態で(そんな状態で CD を出すな!というツッコミが聴こえる)なにかしら歌いたいことがあって、それを自分達の好きな音楽にのせて表現したいという 奇跡的なまでに素朴で 邪心のない(オメデタイとも言う)人達だったのです。この道(音楽)で 経済的に成功したいという発想自体が 欠落していました。(もちろん、自らを正当化しようとして言っているのではありません。セールス的に b-f が成功しなかったのは、これが大きな要因のひとつです。明らかに良くない事です。)
ところが、おりからのネオアコ・ギターポップ 小ブーム?! の流れにのって、気がつくと いつのまにか僕達は POP シーンの荒波へと 泳ぎだしていました。浮き輪さえ持たず、無防備この上ない姿で。そこが 生き馬の目を抜くといわれる弱肉強食の世界であるということに 全く気付く気配すらない僕達なのでした。

 では、この頃の b-f を象徴するような、ある 山崎組系 指定ロック雑誌団 編集組長 との心あたたまる電話インタヴューのやりとりの一部を・・・。

組長(以下、Y.Y) 「どうして そんなにスミスに似てるんですか?」

僕:「え?そんなに似てますか?」

Y.Y:「ていうか、意図があるんでしょ?」

僕:「いや、べつに・・・」

Y.Y:「でも 似てるじゃねえかよ(怒)!ほら、あのブリリアント・ドリームとか」

僕:「うーん、そう言われれば・・そうかな・・・」

Y.Y:「あーーっ、もういいよ(怒怒)。じゃあ、なんでそんなに被害者意識が強いの?」

僕:「ヒガイシャイシキ・・・ですか? 強いですか?」

Y.Y:「ツエー(強い)から きいてんだろが(怒怒怒)!なんか昔あったとかさー」

僕:「いや、わりと普通・・やと思いますけど・・・(恐)」

Y.Y:「そんなはずねーだろ(怒怒怒怒)!!じゃあ、なんであんなミツバチみたいな歌詞が出てくんだよ!」

僕:「(恐恐)あー、そういえば 登校拒否とかは してましたけど・・・」

Y.Y:「それだよ(納)。ねえ、その話って おもしろい?」

僕:「おもしろいっていうか・・・そんなたいした話じゃ・・・」

Y.Y:「あ、そう(間)。時間ないし また今度きくよ。とりあえず次の号に載るから。じゃ、また」ガチャ  プー

 ずいぶん前のことなんで、正確ではないとは思いますが、そんなに誇張もしてないと思います。
インタビュー後の号の b-f の記事の見出しは 確か、歌う登校拒否児だか幼稚園児だか、そんなんでした。


 9. そこは君の場所ではない

 b-f の歌詞が出来上がるまでには たいてい それはそれは いろんな紆余曲折があるのですが、なかには この曲のように、ニュルッと出来ちゃうのも あります。
 まず、作る前から頭の中に テーマのようなものがある時は ほとんど失敗します。作っているうちに おもしろくもなんともなくなってきて、それでも強引に(「気付かずに」という場合もある)書き進めると、明け方には おぞましい生ゴミのような臭いがしてくるので 捨ててしまいます。
 逆に、うまくいく場合(あくまで、自分内 OK ですが)は、テーマではなくて イメージ(画像や言葉の切れはし etc.) が頭の中にある時です。この曲では それは

  「似合わない赤いスカートをはいた憂鬱が、雨の中を通りの向こうから やって来る。」

というイメージ(短い文章)でした。
残念ながら 具体的な映像ではなかったので、どんなものか説明しろと言われても難しいのですが、まあ そういった類いのものです。(きっと これを読んだ オカベーロが 怪奇生物図鑑にて 見事に画像化してくれるでしょう)

 僕は 基本的に テーマなんてものは後からついてくるもんだと思っています。作っているうちに、無意識に 自然と滲み出てしまうものだと思っています。あるいは、曲によっては ないにこしたことはないとさえ思います。だから「弱っている日本人を勇気づけようと思って作りました」なんてセリフを聞くと 吐き気がします。また、よく 頭の悪い(というか、それが『 正常』なのかもしれないけど・・)歌手や役者が「聴く人(見る人)に夢を与えたい」などと ほざいて けつかって おられるのを耳にしたりするのですが、「ア、アタエル!?オマエは神か?仏か?何様のつもりじゃい!」と、思わずツッこんでしまいます。そんな奴らに ロクな奴はいません。(断言)
またも毒舌と悪意のコラムと化してきたので、他人のことはこのくらいにしとかんとね。

 b-f の CD のアンケートなんかを読むと、「癒される」という言葉をよく目にします。世の中に癒し系という言葉が溢れるようになる前から 僕らは なぜか そう言われてました。ただ、もちろん 僕らは 誰かを癒してあげたいと思って 音楽を作っているわけではありません。どちらかというと、僕なんか「人を癒してる場合じゃない、誰か僕を癒してくれ!」って感じです。でも、結果として b-f を聴いて みんなが癒されるというのは、とても とても嬉しいことです。ほんとに素晴らしいことです。みんな b-f を聴いて、死ぬほど癒されて下さい(日本語 ちょっと変)。


 10. 丘の人、森の人

 9 曲目と 11 曲目の間に、なんかインスト曲が欲しいなということになって、小池君が作って来たのがこの曲です。この曲を何度も聴いているうちに、妄想のようなものが 次から次に連なってゆき、「丘の人、森の人」というタイトルが生まれました。
 そもそも「丘の人」とか「森の人」とかいうのは、今ではすっかりおなじみの(例によって、自分内おなじみですが)はちの式 ヒト の分類法で、一般的に行われている 白色人種、黒色人種、黄色人種 というのや、A,B,AB,O の血液型によるものなどと同じようなものです。(また、おかしなこと言い出したと思ってるでしょ?)
 はちの式では 現在のところ『ヒト』は 次のように分類されています。

街の人  町の人  丘の人  森の人

 (なんか自分で書いてて、相当あぶない感を 放出してる気もしますが、決して新しい宗教を広めようとか思ってるわけではないので 、我慢して読んでね。)
 あまりにも個人的な分類法なので、どうにも この感覚は 伝えようがないのですが、まあ、言葉にできないから 音楽を作るんでしょう。(開き直り)
わけわからんと思うけど、感じでいうと、

街の人 ≒ 町の人  です

そして、都市に住んでいる人々には 街の人 や 町の人 が確かに多いけど、なかには 稀に 丘の人 や 森の人 もいます。

北海道で牧場をやっているからといって 丘の人 とはかぎりません。

森の人 は 少数派で、周囲の多数派(街の人や町の人)からは「ちょっと変わってる」と言われがちです。

町の人 には「街の人寄りの人」と「丘の人寄りの人」がいます。

また、僕は自分のことを 町の人 であり、丘の人 でもあると思っています。

 う〜ん、なんなんだこれは・・・。読み返してみたが、自分でも さっぱりわからん。
「丘の人」を聴いて 整理するとしよう。


11. 君がいなくなると淋しくなるよ

宗樹(橋本)と湯田くん

うわー、長いことさぼってたな。半年ぶりやん、なにしてたん?(ごめんなさい。)久しぶりすぎて、なんか勘が戻らへんけど、いきますか!

 はちのひでしの夕暮れ好きは有名で、やたら歌詞に夕暮れの情景が出てきます。この曲も「マーマレードの雲」というだけあって、夕暮れというか、夕映えの光景ですね。また、僕はなぜか熱帯とか温帯より寒帯、冷帯(地理の授業で習ったでしょ)が好きで、住んだこともないくせに、スコットランドや北海道を舞台に歌詞を書いてしまったりします。

 ずいぶん昔、一度だけ、北海道を車でゆっくり、旅したことがあります。そのときの美瑛の丘の夕暮れの美しかったこと・・・。『日頃、都市に住んでいる、旅行者の視点』ということもあるのだろうけど、そこは「ここに生まれ育ってみたかった」と思わずにいられないほど、心ひかれる土地でした。その頃から、僕の中で「自然」という言葉から連想する風景が、アマゾンのジャングルやアフリカのサバンナ(これは、その昔あったTV番組「素晴らしき世界旅行」の影響か?)から、樹木もまばらな北の草原、森といえば針葉樹林というふうに変わったように思います(かなり単純)。

 「君がいなくなると淋しくなるよ」は、そんな心の中の『空想故郷』が舞台になっている分、リアリティーが薄く、タイトルの「直せつ的であるがゆえの平面さ」も手伝って、不思議な仕上がりになってるなと感じました。ずいぶん第三者的な意見やなぁ、我ながら・・・。


 長らくさぼってゴメンナサイ。ほんと気まぐれ野郎で、申し訳ないっす。今後は、まじめにレヴューします。誓います。懲りずに時々のぞいてね。   はちのひでし

 


12. APRIL RAIN

 うーん・・、これも歌も音もよくないなあ・・。せめてMIXのやり直ししたいなぁ。

僕は、18歳から親元を離れて、京都で一人暮らしをしだしました。京都は、古都であり、また先鋭的な部分をもった学生の街でもありました。高校時代は まともに女の子と喋ることもおぼつかなかった僕にも、何人かの女友達ができ(たいてい、一人暮らし)よく、彼女達の部屋へ遊びに行きました。それが彼女であっても、ただの友達(いや、ほんとにただの友達やってば・・)であっても、それまで女の子と時間を過ごすことがあまりなかった少年には、とても胸おどる出来事だったのです(なんか赤面告白やねぇ)。もちろん女の子と部屋で過ごす時間も好きだったけど、部屋へと向かうときの あのなんとも言えないゆるやかな時間の流れが 僕はたまらなく好きでした。この感じって、わかる人いるかなぁ?あるときは、夏の日ざしの下、自転車で汗を拭き拭き、またあるときは、冬の冷たい雨の中、原付きで凍えながら・・・。
 そのときの女の子の顔も よくは思い出せなくなってしまったりしてるのだけど、自転車をこぎながら見上げた空の微妙な色合いや、風の感触なんかは今でも ふとした瞬間に、鮮明に蘇ったりするのです。人間の記憶って、不思議やね。

 この曲は、Everything But The Girl のトレイシー・ソーンの影響があからさまだけど、上記のような理由で、楽曲自体は嫌いじゃないです。

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