EPを出した後、いろいろなイベントやライブをこなしながら、 b-f は次のLP の制作にとりかかりました。家庭の事情でベースの湯田君が新潟へ去り、宮君が加入しました。宮君の加入エピソードは、後に書くとして、この頃の僕の心理状態は、日本の音楽状況の妙な追い風を感じながらも、それにすんなりのっていくことはできないというやっかいなものでした。自分達は他の「洋楽として聴かれたいネオアコバンド」とは違うんだという気負いも手伝って、相変わらず音楽的交遊をだれとも持たないまま、加速度的にどんどん自分内世界へと閉じこもっていきました。「ムクドリの眼をした少年」というタイトルからもわかるとおり、本来、 b-f がセールス的に成功する近道として乗るべき目の前の風を一歩離れて見送ってしまうような音楽と詩の世界がここにはあります。正直を言うと、この時期、時代をとらえることのできる心地のよいPOPな作品を作っておくべきだったのだろうと後悔さえしています。でもたぶん、今の僕がタイムマシーンでこの92年に戻れたとしても、結局この作品を作ってしまうんじゃないかという気もします。自分内に閉じこもって作った分、この作品は b-f のアルバムの中でも はちのひでしの原液濃度が濃く、僕にとっては作っておかなければならなかった一作だったのではないかと思います。相変わらず唄も演奏も・・・なのですが、そういう次元をこえて、このアルバムは今もとても気に入っています。

1. 太陽を待ちながら

 「現実逃避」という言葉は悪い意味合いで使われることが圧倒的に多い。ただ前にも書いたとおり(Dear、1984年の僕)現実世界に裸で真正面からぶつかっていっても、傷だらけになるだけで、命がいくつあっても足りない。傷ついてしまった時「現実逃避」は生き続けていくためのとても大切な手段でさえあると思います。
 僕は基本的に精神構造が草食動物なので、「逃げる」という行為にあまり後ろめたさを感じません。だから、自分が理不尽だと感じる『力』におさえつけられそうになったりしたら、とにかく逃げる。たとえば国家権力。もしこの国に徴兵制があったとしたら、僕は絶対に逃げる。国民の義務だろうがなんだろうが、戦争のお手伝いをするくらいなら死んだほうがましだ。でも自殺するのも、徴兵拒否で刑務所に入れられるのもしゃくだから、どんな姑息な手段を使ってでも逃げる(学校のプールの授業を休むために 目に泥を擦り付けて結膜炎になるとかと同じ類いのセコさで)。
 また、そんな仮定の大きな『力』じゃなくても、身近にはしょーもない『力』があふれています。
世の中にはよくある話だけど、13〜14年前、当時の会社の上司に洗剤だかなにかのネズミ講まがいの商売に誘われました。「絶対悪い話じゃない」、「いいモノを人にすすめるのが何故いけない」、「近い将来、ポルシェとか乗りたくない?」など、それまで感じていた彼の印象とは、まるでヒトが変わってしまったかのように、僕を勧誘しようとするのです。僕が「もっと誇りを持って生きたいし、だいいち ポルシェになんか乗りたくもない。」と言い放つと「変わってるね。オカシイんちゃう?そんなふうに現実から逃げてると社会的に成功しないよ」とまで言われました。人の噂で、その人は現在 実際ポルシェだかカウンタックだかを乗り回してるらしいです。彼は彼の欲しかった『力』をめでたく手に入れたのでしょう。
 これは世界の常識とは少しズレているのかもしれないけれど、「民族の誇り」も「社会人としての誇り」も不必要なゴミだと思う。僕はただ「生物としての誇り」を持って逃げ切るのだ。さあ、すべての しょーもない力に あくびを投げかけよう!!


2. ママをシャベルで打つな

 映画『明日に向かって撃て』の中で、ポール・ニューマンがキャサリン・ロスを自転車に乗せて こんな歌を歌います。「ママをシャベルで打つな〜♪心にアザができるから〜♪♪」。その後に続くバート・バカラックの名曲『雨にぬれても』のシーンは とても有名ですが(この曲もこの場面も僕は大好きです)、ある夜、何度目かの この映画(ビデオ)鑑賞で僕の心をとらえたのは「ママをシャベルで打つな」でした。
でも、安心して下さい。一曲目『太陽を待ちながら』の実直さからして「もしや、八野家での家庭内暴力の幼児体験を・・・」などと思うかもしれませんが(思わんか・・・)、幸いウチには家庭内暴力はなかったです。「世界をくたびれさせる」ために、1992年の僕=はちの ひでし は、けなげにも2曲目で「でたらめ」と「嘘」を展開しているのです。
マジか冗談かわからない この不安定な変化球は、往年の阪神・中込投手の「まっスラ」並み(非常にわかりにくい比喩で申し訳ない・・)ですが、僕はまあ なんというか そういう性格なのです。

 ところで、この「ママをシャベルで打つな」(b-flower の方のね)から始まった『子供主人公シリーズ』は、後々のアルバムに律儀に受け継がれていくことになります。ほら、今 思い浮かぶだけでもいくつかあるでしょ。


 3. 春の晴れた午後、シャングリラは・・・

 曲を作る場所というのは、きっと人それぞれあるのでしょうが、僕の場合、99%が自分の部屋です。スタジオ・リハーサルで曲になっていくものもありますが、それにしたって、原型となるのは自分の部屋で作ったメロディーなりコ−ド進行なりです。
 僕は、どちらかというと、何かひとつの事に集中するのに時間がかかるタイプなので、よく、アーティストが「ツアーの合間にホテルで作った」とか「楽屋でギターいじってたらできちゃった」みたいな事を言ってるのを聞くと、マジでうらやましいっす。なにぶん、気分に左右されやすい人なもんで、「曲、作ろっかな」という気持ちが湧かないかぎり、曲は産まれてこないのです。『じゃあ、どんな時に「曲、作ろっかな」と思うんだ、テメーコノヤロー!そんなこと言ってっから いつまでたってもニューアルバムできねーんだろボケ!』という全国数千名?の b-f ファンの激しいツッコミを今、後頭部に感じながら、その問いにお答えしますと、「雨か曇りの、なんか ひんやりとした3月の午前中」というのがベストのようです。「んなアホな。カナリヤの産卵やないねんから・・・」という全国 数名の b-f ファン兼、関西出身 カナリヤ繁殖業者のマニアックなツッコミもはいったところで、『春の晴れた午後』のお話。

 この曲を作った日は、何か特別なことがあったわけじゃないけど、よく憶えています。それは3月じゃなくて、4月の曇った朝。熱い紅茶をいれて飲んでいたら、「ちょっとギター弾きたいな」って感じになりました。チャラチャラと1時間ほど弾いていると、いつのまにか 外は晴れて 暖かな春の日ざしがあふれていました。僕はなんだか気分が良くなって、「あっ!外で曲、作ろうかな」と急に思いたち、車にギターとラジカセを積んで鞍馬(京都の山間部です)のほうへと走り出しました。ひと気のない川のそばに車を停めて、アコースティック・ギターをジャカジャカ鳴らしながら この曲を作りました。
 僕の目に間違いがなければ、シャングリラ(=理想郷)は、確かに その4月の午後、空から落下傘で降下してました。

 


 4. 孤立するピーターのくるぶし

 僕はときどき、こういう どうしようもなく淋しい歌詞を書いてしまいます。というか、ほうっておくと、こんな詞ばかり書き続けてしまいます。『その時の心境や気分がストレートに作品に現れる』というタイプのアーティストが多いように思いますが、どちらかというと、僕はそのタイプではないなと感じ始めたのは この頃ではなかったでしょうか。というのも、この「ムクドリの眼をした少年」という、かなり痛々しいアルバムの曲を作った1992年というのは、僕の今までの人生の中でも1、2を争うくらいハッピーな年だったからです。なのになのに、メロディーはともかく、出て来る言葉はどれも低温で、カラフルとは言い難いものばかり。もしかして「胸の北の果ての永遠に溶けない氷」のせいなのか?!あるいは、自分の感情を表現するのが単に下手すぎるだけなのか?・・とすれば『アーティスト』としては致命的ではないのか?・・・・おっと、いかんいかん、また「負に沈む」悪いクセが・・・。

 この曲を鈴木ヒロシから初めて聴かされた時、.僕の頭のスクリーンには、旧ソ連の寒々とした平原に立つやせ細った少年の膝から下の映像が写し出されました。「それにどんな意味があるの?」と訊かれても、僕にもさっぱりわからないんだけれど、とにかく この曲は「孤立するピーターのくるぶしな曲やなあ」と思ったわけです(なぜロシア人なのにピーターなのか?)。まあ、ある意味『その時の心境や気分がストレートに作品に現れた』と言ってもいいかもしれません。そういう「人に説明のしようのない光景や感情」を表すのに、『音楽』って とても優れた手段(うまくいけばの話だけど・・)のような気がします。映像や文章よりも。


 5.冬の最後の雪

 このアルバムの曲を作り始めた頃、Bass の湯田君が、家庭の事情で新潟の実家に帰らなければならなくなりました。これは僕にとっても大きなショックでした。
彼はそもそもバンドの名付け親でもあり、これから二人でバンドを引っ張っていくことになりそうだなと思っていた矢先の出来事だったからです。また彼は、アーティスト=八野英史の身近で且つ、最も良き理解者で、僕はいつも曲や歌詞ができた時「湯田はどんな評価をくだすかな?」と密かに楽しみにしていました。
新曲リハーサルの時、演奏中に歌詞を聴き取ろうとして(僕は恥ずかしいので、メンバーにさえ、詞をなかなか見せない)ボーカルモニターに気をとられていたら、「シメシメ」って思うし、「なんかヒデさんっぽくない」っていう顔をしてたら「こりゃダメだ」と、詞曲はあっさり捨てるっていう・・まあ大まかにいうとそういう感じ。

 そんな中心メンバーの湯田君が抜けざるをえなくなり、彼が後釜にと自ら推薦してくれたのが驚異の美メロメイカー=宮くんだったのです。宮くんも大学時代の軽音楽部の後輩で、僕の一つ下、湯田からいえば一年先輩でした。僕は、みなさんのご想像どおり、下級生に対して、あまり面倒見のよい先輩ではなかったので、宮ともマトモにしゃべったことはなかったけど、『なんかちょっと変わったヤツ』ということだけはよく知っていました(あっ、宮、すまんすまん)。彼に連絡してみたら「今、別にフラフラしてるし加入してもよい」とのこと。僕はさっそく宮ん家に出向きました。ベーシストとしては、しょっちゅう見聴きしていたので心配はなかったのですが、『とにかくスゲェー変なヤツ』(あっ、失礼失礼!)という印象が強かったもので、はたして、うまくやっていけるのか、けっこう不安を抱きながら(ハハハ、ほんまに失礼!)の対面。お母さんに晩ご飯をごちそうになりつつ、いろいろと世間話をしました。食後、テレビがつけられ、チャンネルが KBS 京都パーフェクト・ナイターに合わせられてほどなく、その劇的な瞬間は、あまりにも突然に訪れたのです。

宮 「ここんとこ野球 見にいってないですわ」

八 「うん、俺も」

宮 「あー、でも、今年もあかんねやろなぁ」

八 「え?今年もって!?」

宮 「いや、あっ、ひでさんどこのフ・・・」

八 「み、みや、も、もしかして、オ、オ、オマエ・・」

宮・八「阪神ファン!!!」

 こうして、宮くんの b-flower への正式加入が決まったのです。
その後、宮くんが作りためていたデモ・テープを聴かせてもらいました。そして、その中には既に「冬の最後の雪」として後に発表されることになる原曲も(かなり完成されたアレンジで)入ってました。
 話はそれるけど、僕は宮のボーカルもとても好きです。デモで歌っている時の、なんとも不安定でぼんやりした(ちゃうちゃう、これは褒め言葉)歌。そして、何よりも 普段の宮からは想像もつかない(あっ・・)美しいメロディー。ニューアルバム用の曲、もっと作れ!!

 度重なる不運にもめげず、 bーf はオカベーロと宮という強力なメンバーを加えて、気持ちも新たに動きだすのでした。

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