モノノケ・サミット台湾紀行
”通訳”の目から見たモノノケ・サミット初台湾公演
<其の一>
文: 鳳気至純平(ふげし・じゅんぺい)
台湾の友達が今回のイベント”流浪の歌ミュージックフェスティバル”のボランティアスタッフをやっていた縁で、モノノケの記念すべき初台湾公演の通訳を務めさせていただいた。
ライブはイベント初日のオープニングの際に二曲、二日目は公園大ステージで、三日目は大学の視聴覚教室のようなところで、と参加バンド中最多出演だった。私は学校の用事もあり、初日のライブ数時間前に南部の台南から会場である台北へ到着し、モノノケの皆さんと初対面した(ライブで一方的にこちらから熱視線を送ったことはあるが…。)
初日はヒデ坊さんの「我是魂花(私達はソウルフラワーです)」の挨拶で始まり<聞け万国の労働者>と<インターナショナル>の二曲。曲と曲の合間にヒデ坊さんからモノノケの紹介をしたいということだったので、事前に頂いていた原稿を自分が中国語に訳して、読み上げるという形を取った。台湾でも1999年9月21日に中部で大地震があり、モノノケの結成の動機には台湾人も共感していたようだ。
明けて二日目はメインのライブ、中川さんの「一曲ごとに曲の背景などを解説したい」という希望により、自分が舞台の袖に立ち、同時通訳を務めた。私の能力不足により締めるべき所で笑いが起こってしまったり……(後から中川さんに「ええキャラやったで」と言われたのが救い……)でしたが、ライブの盛り上がりは文句なしだったと思う。台風が接近しており、モノノケ開演に合わせるかのように降り始めた雨にも観客達は立ち去ることもなく、また椅子席前最前列部分にスペースがあってそこは雨が凌げる為、はじめからそこに人が押し寄せるという形になり、むしろステージと客席との距離が縮まり一体感が高まった。ステージ前面には小さい子供達が並んで座り、全体的には一種異様な盛り上がりを見せていたように思う。
三日目はワークショップと言う名目だったのだが、結局ミニライブというような形になった。機材の関係で時間が大幅に遅れたにもかかわらず、そらちゃんにお菓子をあげる日本語勉強中の謎のおばさんなど、観客は辛抱強く待っていてくれた。中川さんの「社会の窓(死語?)全開」などアクシデントもあったが、途中で「すたあと長田」の紹介があり、ライブ後サイン会兼募金活動を行った。
1999年地震で被災した私の大学院の後輩は<満月の夕>を聴いた時に震災の夜を思い起こしたと話していた。個人的には元「反共の砦」台湾で<インターナショナル>を盛大に披露してくれたのが爽快でした。中川さんが言った「この歌は権力者の歌ではなく、民衆の歌」という言葉、今回で一番印象に残った。
以下、台湾人の感想も知っていただきたいと思い、大学院の後輩で一緒に通訳を務めた許倍榕(シュ・ベイロン)と見に来てくれた游勝冠(ヨウ・シェングァン)教授にもリポートを書いてもらうことにした。(ともに鳳気至訳)
”通訳”の目から見たモノノケ・サミット初台湾公演
<其の二>
文:許倍榕(シュ・ベイロン)
リハーサルの時の天気は少し肌寒かったが、とても気持ちがよかった。女の子(そらちゃん)が買ったばかり風車を持ってステージ上を駆け回っていた。サウンドを調整する為に演奏を中断するたびに、メンバーは楽しそうにそらちゃんに話しかけていた。それは彼女が涼しい風、そして音楽の中で、とでもはしゃいでいて、微笑ましかったからだろう。彼等は音楽に対しては真剣だが、雰囲気は自由気ままでとてもアットホームな感じがした。
私はすっとこのライブを楽しみにしていた。昨年のサマーキャンプの時、美濃(台湾南部の一地方、客家人が多く住む)の静かな夜に、ある歌手が自分の好きな曲だと「海行かば山行かば踊るかばね」をかけてくれた。一度聴いただけで心を鷲掴みにされるような曲があるが、ソウルフラワーが正にそうだった。訳も分からず引き込まれてしまったが、その躍動感、パワーはとても印象深かった。
10月23日のライブの夜、一曲目から彼等のエネルギーは観客達の心を打ったようだった。司会者と通訳の紹介によって、モノノケが約十年間の阪神地区における支援活動のなかで、異文化に出会い、試行錯誤しながら聴衆の聴きたいものを取り入れいるということを知った。それは一種の美しい敬意、また謙虚な気持ちであり、まるで彼等が異文化と微笑みかわしているかのように感じた。
彼等は色々な問題に対して関心を持ちそれについて考えていて、そして音楽で表現しているのは苦痛の歴史に対する真剣な眼差しであり、そして何より人に対する揺るぎき信頼である。そして彼らの音楽は時にシリアスに、時にユーモラスにこの世界を表現しているようだ。
ライブ中に雨が益々激しくなる中、殆どの人が立ち去ることなく更にはステージの前に押し寄せ、両手を上げ体を揺らし、歓喜をあげる人、一緒に歌う人迄いた。ステージ最前列に座った子供たちも、楽しそうにリズムを取っていた。バンドと観客、そして観客同士の距離がとても近くに感じられるライブだった。同じように地震の被害に遭った二つの国として、言葉は違うけれども、ライブの最中は何とも言えない一体感を感じた。また彼等の音楽はまるで後ろから軽く背中を押されているような力があった。見に来た人全員が心底楽しんだこの夜を忘れないだろう。
■台湾の人々からまっすぐなエネルギーもらってきました
文:中西智子
関西を吹き荒れた台風が過ぎ去った10月21日、ソウル・フラワー・モノノケ・サミットは初の台湾へと飛び立った。今回の旅は我らが姫君、そらちゃんも同行。機内のお客さんや客室乗務員さん達に愛でられつつ、無事台湾に到着。
ホテルのある町は台北の南の方で、電気屋、家具屋が立ち並ぶ。始めて訪れた台湾であるが、見たことはない昔の日本を思わせる町並み。喫茶店でもふらりと覗いた店でも、日本語は通じないが実直な対応をしてくれるが気持ちいい。そして犬が多い。いい町だ。
ホテル近くに結構立派な公園があったので、そらちゃんを誘い訪れてみる。旅の疲れも何のその、そらちゃんは大はしゃぎ。公園では近所なのであろう子供らが道具で思い思いに遊びたおし、おじいちゃんがのんびり犬と散歩していたり、ご近所のジジババがベンチに座ってお茶など飲みつつ世間話に花を咲かせている。ストレッチ用のバーや小石を敷き詰めた通路(足裏のツボ押し。痛い!!)、落ち葉を堆肥にする容器。自然に人が集い健やかに暮らしている感じが伺える。日本だともっといかにもやっていますな感じになるんだろうな。
電気屋街の一角という賑やかな場所にぽこんとあるその一角だけ時間の流れが穏やかなようで、ああ最近こういう風景見ていないな、とぼんやり思う。そして日常に流されてこういう時間や視点を忘れている自分の生活をふとふりかえってみたりする。(翌朝早朝に公園を訪れた中川くんによると、昨日の公園で100人ぐらいが太極拳をやっていたとのこと。あまりに台湾的で、おお、と嬉しくなる。なるほど、それで公園のつくりがゆったりとしているのかと納得)。
台湾二日目は当初オープニングパーティーのみの参加予定であったが、急遽オープニングセレモニーの賑やかしで2曲演奏することに。会場である大安森林公園は街中にあって名の通り豊かに緑が繁り、以前モノノケで訪れたパリのリュクサンブール公園を思わせる。
台北市文化庁が主催するこの”流浪之歌音楽節”は、この公園のステージを中心に行われる。緑萌える中、散歩中の家族連れやお年寄りたちが「なに?なに?」とリハーサルを見つめる。
本日のメインアクトであるルーマニアのジプシーバンド、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスはモノノケで数回共演している間柄。ここ台湾で4年ぶりの再会である。惜しむらくはニコラエ爺さんその場にいないこと。きっと握手の手を寄せ強引にハグしてきただろうに。いたずら小僧のような笑顔を思い出す。
楽屋での待ち時間、我らが奥野とタラフのアコーディオン奏者マリウス氏のセッションが始まったかと思うと(その後アコを売りつけられようとしていた。……4年前と同様に!)いつの間にかウッドベースが入ってきて樋野ちゃんのSAXと絡み、負けじと中川くんも三線で参加と、文字通り「音楽に国境はない」と感じる瞬間。
この日、モノノケは<聞け万国の労働者><インターナショナル>の2曲を演奏した。
どの曲を演奏するか、ということについて中川くんとヒデ坊は幾度も選曲を変更した。
とりわけ<インターナショナル>を台湾でやるということについて。周知の通りこの曲
は過去に忌み嫌われてきた経緯をもつ。オープニングで名刺代わりに演奏するには、
モノノケがこの曲を演奏する意味について言葉足らずな印象を与えるのではないだろ
うかと。そして、会場に集まった大勢の老若男女のお客さんそれぞれの耳に、この曲
はどのように響くのだろう。
それぞれの曲にはそれぞれの思いがある。言語も文化も逢えば共感で書る部分も相容
れない部分もあるだろうが、モノノケとして演奏する曲たち、それに内在する背景や
風景をこの地で演奏することの意味というか意義というか、そういうモノをこのツア
ーで共有していきたいと改めて感じる。
後から聞いた話ではあるが、実はこの日<インターナショナル>は大歓迎されていた
という。「120年前にフランスのあるオヤジが作った名曲です。我々が正しいアレ
ンジで演奏します」との中川くんのMCが大ウケだったとか。ほっとすると同時に、
穿った視点ではなくきちんと感じ取ろうとしてくれるお客さん連に感訂した。
3日目、この日はメインステージでの演奏。リハーサルのあと時間があったので、
大安森林公園内にある子供公園(?)へそら娘と繰り出す。土確日だからか、テーマパ
ークか何かかここは?と患うほどの人人人。娯楽施設が少ないのだろうか、遊具で遊ぷ
子供達のエネルギッシュな遊びっぶりにそらちゃんも私達も圧倒され唖然。すべり台
で頭から転げ落ちようが、我先にと遊具に登ろうがコドモもオトナもお構いなし。日
本だったら親が止めるか、喧嘩になってるよなあ。
ちなみにこの日のそらちゃんはシーソー(日本のと速い、スプリングがついていて
楽ちん)がいたくお気に入り、ぐらんぐらんしながら眠気と戦っていた(笑)。その後
控窒に戻ってからべ−スケースの中(!)にすっぽり収まって眠る超キュート!な姿
がスタッフを魅了、メロメロになった大人たちがその姿を写真に収めるべく長蛇の列を
作っていた。癒し担当、そら娘の本領発揮。
今回のライブでは台湾に留学中の日本人、フゲシ君がステージで通訳を勤めてくれる
ことに。モノノケの選曲的に、曲の背景をお客さんに伝える際に言語の壁は少なから
ず影響する。スタッフとのやりとりはヒデ坊とヨーコちゃんの英語で行なわれていた
が、大勢のお客さんに伝える為に、通訳をしていただけるというのは本当にありがた
い。加えて、中川くんはこっそり彼に「とりあえずみんなを笑わせたいねん」と言っ
ていたらしい。なるはど笑いが起これば、おのずとステージと客席の距書はぐっと近
づく。それはどこの国でも、どんなお客さんでも同じだ。
中盤でけっこうな雨が降り出したが(台湾ではスコールが多いそう)、帰るどころ
か逆にステージ前にお客さんが押し寄せ、子供達などはステージ上のモニター前に座
って(踊って!)、ぐぐつと親密な空気に。聴く側と演る側、それぞれ言語や文化は逢
えども、その場に流れるものを受け止めようというベクトルが溝を埋めていくように
感じる。
この日のライブを、中川くんは「このメンバーになってからのベストライブ」と言
っていた。確かに素晴らしいライブだった。ステージ上の全員がお客さんへ向かってひ
とつの方向を見ていた。そこで発せられるモノをまっすぐに感じ取ろうとするお客さ
んたちの力をたくさんもらった。
この感じ……たとえば初めて訪れた震災後の東灘区の避難所。東ティモールでのス
テージ。寿町、釜ケ崎……。場所や人種やシチュエーションは違えど、その根底にあ
るエネルギーのやりとりはいつもまっすぐで、真摯で、無骨で、神々しくさえ感じる。
それはステージと客席の同だけでなく、イベントの運営を担う人、バックステージで
の気遣いなどそこここに感じること。ここ台湾の人間性なのだろうか、まっすぐであ
たたかく、親切。
4日目の中國文化大学内のステージでも同様に、台風が近づく雨の中、来てくれた
人たちはまっすぐに受け止めようとしてくれていた。この日はワークショップ形式と
いうこともあって、曲の背景や、モノノケがそれを演奏するに至ったいきさつなどを
通訳してもらいながら説明する。特に阪神大震災のこと、そこから生まれた<満月の
夕>に関しては、フゲシ君から台湾人の女性にバトンタッチし、より細かく伝えても
らうことができた。終演後もお客さんたちはなかなか帰ろうとせず、スタッフや、出
てきたメンバーを捕まえてはあれこれと熱心に質問を浴びせていた。
残念なことに用意してきたCDが前日までで完売してしまったのだが、是非手に入
れたいからとホームページのURLを聞いてくる人も多数いたようだ。
今回の台湾でのツアーで朧気ながらに肌で感じたたくさんのこと。過去と現在にお
ける台満と日本の関わり、1987年まで国民党の厳戒令下にあった台湾という国、
そこに住む人々。この短い期何で見聞きし、歩き感じたことはほんの少しでしかない。
けれど、この小さないくつもの出会いがそれぞれ起爆剤となって、中へ外へ広がって
いくのだと感じる。もっとお互いを理解するために。共にこれからを生きる者として。
「台瀬は人と食べ物が最高」と聞いてきたが、確かにその通りだった。華美ではないが骨
太なウマさがあって後味がいい。屋台で食べた鴨麺のように。
最後に、この台湾ツアーに関わってくださった全ての方々と出会った人々、そしていつ
も私達を和ませ笑いを与えてくれたそら嬢に最大級の感謝を!またきっと行くぜ台湾。
|