さて、いよいよセルフ・レヴューのはじまりです。イントロダクションでの告白どおり、僕はコンピューターがあまり得意じゃないので、諸々の問題が噴出するかとは思いますが、末長いおつき合いを・・・。

 1. 日曜日のミツバチ

 記念すべき第1回目は、自主製作盤 SEEDS 001 の表題曲
です。それにしてもヘタな演奏、ヘタな歌、ひどい録音。しかし、へたゆえにあの頃の僕らにしか表現しえない何かがそこにある気はする。

 大学卒業後、当時DCブランドと呼ばれていた洋服屋で働きながらバンド活動していた僕は、b-flowerを結成しました。公式には88年と書いてるけど、たぶん85〜86年だったと思う。
というのも、ライブをするわけでもなく、自主製作をするわけでもなく、ただ 悶々と夜中に貸しスタジオで練習をくり返すのみの(しかも、律儀に週1ペース)変なバンド(バンド名もない)でした。プロ志向でも 音楽を純粋に楽しみたいのでもなく、「バンドでもせんとやってられへん」感から えんえんリハーサルをくり返してたようで、スタジオ内には妙に切迫した雰囲気があったのを よく覚えています。
 ペイル・ファウンテンズ や フェルト や ヴェルヴェット・アンダーグラウンド のコピーをしたり、1 〜2曲 よくわからないオリジナルらしきものを作ったりで 1〜2年 が過ぎ、ギタリストがやめました。初期メンバーの八野、橋本、湯田、小池の4人は、解散しても何の不思議もないこのバンドに どんな可能性を感じたのか、ギタリストを探そうということになりました。87年頃のことです。楽器屋さんにはり紙をしたら 鈴木 浩 がやってきました。何人かオーディションをしたけど 浩に決まったのは、当時のギタリストにしては珍しく、スミス や アズテック・カメラ が好きだったのと、証券マン(はっきり言って、向いてないと思う)として安定した生活をおくりながらも、「バンドでもせんと・・・」感が強く伝わってきたから。
 そして5人は、また あの無菌室のようなスタジオでのリハーサルに戻りました。

 そうこうしているうちに ポンと生まれたのがこの『日曜日のミツバチ』です。24 歳の僕が作った生まれて4 曲目くらいのオリジナル曲です。
 この曲をスタジオで練習するようになって、バンドの中で 何かが明らかに変わりました。「いっぺん ちゃんとライブしよか」「デモ・テープというか、レコードか CD 作ってみようや」とか 今までに出るはずのなかった言葉がメンバー間を飛び交うようになりました。自分達自身、わけのわからないエネルギーがつまった曲ができたなという実感らしきものがあったのかもしれません。でも この曲が その後 b-flower を Pop ビジネスの激流の中へつれていくことになろうとは、その頃は まだ誰一人気付いてませんでした。(なんかドキュメンタリー風)。


 2. Brilliant Dream

 1987年、八野・橋本・湯田の3人は、無理矢理 仕事の休みをとってロンドンへ行きました。B & B を渡り歩いて、毎日 GIG のはしご三昧。その頃のイギリスはインディーズ・ギターバンド全盛で、スミス・フォロワー( b-flower が フリッパーズ・フォロワーでなかったのと同様、彼等もスミス・フォロワーなんかではなかったのでしょうが・・・)と称される無数のマイナーなバンド(でも良いバンド)が ごろごろ居ました。C86 などとも呼ばれてましたが、まあ、そんな括りはどうでもよくて、とにかく毎晩 どこかのライブハウスで、なにかおもしろげなギグがあるという状態。毎日 Time Out(情報誌)をくまなくチェックしてどことどこをまわろうなどと 精力的に行動しました。

 ある晩は ピカデリー・サーカスにあるライブハウスで サマー・ヒル というバンドを見ました。ややむさ苦しい系にいちゃん4 〜5 人組の ハーモニーが美しいギター・ロック。確か 初期エヴリシング・バット・ザ・ガールのバックもやったことがあるとか・・・。会場は人もまばらで そこそこの盛り上がり。カントリータッチの曲が多いせいか、妙にアメリカンな感はあったけど なかなかの好演。

 また、ある晩は カムデン・ロックに ジャズ・ブッチャー を見に行きました。当時、勢いを増しつつあったクリエイション・レコードの代表バンドのひとつで 楽しみに開場を待ってたら、なにやらギグ中止とのこと。わけがわからぬまま 主催者から プリミティヴズ(女性 Vo を中心とした、ブロンディーっぽい新人バンド)のバッジだか チョコレートだかを渡されて「キョウハ コレデ カンベンシテクレ」だそう。仕方なく別のギグをさがしていたら、その列の中にたまたま居た 北海道から来た江川くん(仮名。名前を聞きそびれた。耳がやたらデカく、憎き巨人軍の江川に似ていたので 僕ら3人の中では以後 そう呼ばれ続けることになる。)が「今から別のところで クリエイション期待の新人 ジャスミン・ミンクス のギグがあるから、一緒にいこうよ」というではないか。(思ったよりいい奴じゃないか!)ジャスミン・ミンクスのレコードは持ってたので、これ幸いとばかりに ついて行った。
 会場はせまく、人はほぼ満員。最初に出て来たのは イースト・ヴィレッジ(現在も Birdie としてメンバーが活動中)というバンド。これがまた良かった。美しい EG のアルペジオと、決してうまくはないが せ、せ、青春な歌。人気はそんなになかったけど、なにげない佇まいに感動。その後 メインで出た ジャスミン・ミンクス に会場は大盛り上がりとなったが、僕は まあまあでした。

 この旅では他に ウッデン・トップス や キュリオシティ・キル・ザ・キャット(知らんか・・・)なんかも見たけど、僕はやっぱり イースト・ヴィレッジ が一番。その心の琴線が錆ぬうちに作ったのがこの
Brilliant Dream 。なにせ、曲作りの経験の浅さから ベルベットとスミスとゴー・ビトゥイーンズとイースト・ヴィレッジの影響が あからさまなこの曲。恥ずかしいけど なんかこれでいい気がする。


 3. エスケイプ、それも37回目の

 20代後半不安症候群というのがあるのを知ってますか? 昔から「男、30にして立つ」などという言葉があるけど、25才を越えたあたりから 男の場合、『30才までには立派な大人にならなきゃ・・・』というプレッシャーが 知らず知らずのうちにはたらいて(女の人の場合は、それにプラス 早く結婚しなきゃというのがあるらしい)慢性的なうつ状態で 日々を過ごすことになるというのです。
 20代後半というと、そろそろ自分の人生の展望が いやおうなく見えてしまい、ほんの一部のバカを除いて みんな「こんなんでいいのかな」を背負いつつ生きています。なにかと煩わしい日常を逃れるため、日本という国家での社会生活から離脱して 「どこか遠くへ」行ってしまいたいとか、なかには わけのわからない宗教にからめとられて、違った意味で「どこか遠くへ」イッテシマウ人まで出てきます。
 夢見る現実派の はちのひでし としては、田舎にこもるでもなく、 国外逃亡でも 宗教にはしるでもなく、地方都市 京都にとどまり『つまらんなー、なんかええことないかな』とつぶやきながら暮らすという選択をしました。ただ、人一倍 逃避願望の強い僕は、常にここから逃げ出したいと思ってる やっかいな奴です。原子力発電所があるおかげで、エアー・コンディショナーのきいた部屋の中 アジアの安い労働力を利用して組み立てられたステレオ・セットで CD を鳴らし、低温殺菌済みの牛乳でミルク・ティーをいれながら、『アイルランドの離島でピート掘って暮らしたいなあ』などとほざく 身勝手な奴です。たとえ 小泉さんが構造改革に大成功して、土井さんが憲法第9条を死守して、鳩山さんが菅さんに代表の座を譲り、志位さんが7:3 分けをやめたとしても こんな僕のような人にとって「ここ」は 住みづらいところでありつづけるでしょう。それにしても、20代後半なんて とっくの昔に過ぎ去ったのに、いまだに僕はこんなこと言ってるのか・・・。(参議院選挙速報の見すぎで こんな文章になっちまったぜ 2001/7/29

 「エスケイプ、それも37回目の」は、ホールデン(ライ麦畑でつかまえて の主人公)的 逃避行の歌です。僕らの歌としては 珍しくそう言い切れるシンプルなもので、また、歌詞に出てくる 『ムクドリ』は、この後 何度も僕の心の中に登場することになります。

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